~The Night Shadow Allows You~

月の水面に 映りし君の 愛でき姿は 己が命の 容なるかな

イワンは本当に大馬鹿だ

2005年11月11日 | sub-culture

「シーザーを理解するのにシーザーになる必要は無い」

この言葉を知ったのは、押井守監督のアニメ映画『イノセンス』からである。そしてこの台詞の後には、「誰も聖人の水準で生きることは出来ない」というように続く。

そうだとすると、シーザーは誰にも理解されないということになる。勿論、普通の隣人同士も、そうする事は不可能であろう。

ではシーザーを産んだ母親はどうであろうか?

これも答えは"No"だ。それは他の聖人君子の例から観ても、聖人は凡人より産まれるが、その異能ぶりから皆、孤独に過ごすことになる。またその孤独が、彼らにとっては最上の友であり、彼らの非凡な能力を培うのに役に立つ

しかしながら、興味深い事に、凡人は、聖人を理解する能力は皆無だが、聖人を堕落させることに関しては卓越して優れている。これは最も驚くべき凡人の能力である。またその堕落者に、聖人、またはその落後者が交わった時、人間社会には大きな災いが訪れる事になる。

その最も良い例として、磔されるイエスが挙げられよう。イエスもやはり、凡人より産まれ出でし聖人である。だが彼は、責めるべきものを持たないのに磔にされた。
何故だろう?

それは彼の事を誰も理解できなかったからだ。また彼に従ったものも、結局彼を理解していたわけではない。その証拠として、誰も彼を救えなかったではないか

そしてこのイエスの磔というのは、すなわち、理解できないものに対する、最も強引で野蛮な堕落の方法である。また換言して、理解出来なければ貶めればよい、という凡人の心理が見事に表されている事例ともいえる。

更に、後のキリスト教に見られる、聖母マリアは、ある意味、聖人を完璧に堕落させるのに役立ったのかもしれない。それはイエスの母マリアが凡人だったからである。となると、シーザーの母と同様、イエスを理解できたとは思えず、また"聖母"の事例は、凡人(俗人)による、ある意味、堕落を決定的なものにしようとするものであろう。

最後に、今世の中は、自分の将来について躍起になる事こそが美徳とされているが、それよりも世界の未来について最も躍起になる事こそが真実の美徳では無いかと思う。そう考えると、このような聖人を堕落させようとし、落後者が跋扈する世の中というのは、非常に不健康である。

我々の世界の上には女神の世界がある。それはこれから創ろうと思う、私の作品のテーマの一部だが、それだからこそ、私には去勢された世界には興味が無い。