岐阜/医大生が指導する明光義塾長良教室&芥見教室

医大生が個別指導する全国でも珍しい塾が明光義塾長良地区、芥見地区に登場。山県市、美濃市、関市からも通塾されています

★Good-Bye甲子園

2020年05月24日 17時35分24秒 | 受験

★自粛解除

 いよいよ自粛が解除され25日には登校日で説明会。6月1日より学校が再開。学年ごとに密を避けて午前と午後に分けて登校するみたいです。15日からは一斉に授業に入るようで部活動も16日から開始のようです。他県ではすでに始まっていますがどちらにしても学校が始まれば少しは気持ちも落ち着くのではないでしょうか。そういう意味では解除されてからの人の数と言うか動きはかなり活発になっています。しかし、第二波が必ず来ますのでその対応を考えておく必要があるかと思います。
 
 塾の方は現在平常通り実施していますが換気をしっかりしています。また生徒と生徒の間は7尺(2.1メートル)片手を伸ばして左右から届かない距離を確保していますし、前後はBOXがありますので学校のように飛沫は関係ありません。それでもまだ30cm離しています。そういう中で指導を続けていますが気持ちも大事だと思います。負ける気がする場合は控えておいてください。またほかの日に振り替えればいいのですから無理をすることはありません。
<詳細>http://mm-homepage.com/dozan/

 今日は部活動の一環であります高校野球について話をしたいと思います。今年は戦後初めて春夏甲子園が中止となりました。Good-Bye甲子園、何と辛い決断であったでしょうか。しかし、人命には勝てませんし最優先するべきなのです。危険があれば避けるのが指導者の立場と思います。高校や野球について明徳義塾の馬渕監督の言葉とプロ野球のご意見番広岡達郎氏の記事を最初に紹介したいと思います。
馬渕監督は選手たちにこのように話しました(デイリースポーツ抜粋)

https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20200520-00000100-dal-base

甲子園だけが全てではない。忘れるなよ。このように言っています。また半面広岡氏は高校野球そのものの考え方に警鐘を鳴らしています(幻冬舎)。

https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20200523-00015569-gentosha-ent

日本野球よそれは間違っている。そう警鐘を鳴らしていますし双方とも非常に大事なことを述べています。ただ高校野球は勝つためではなく飽くまで部活動の一貫教育であるわけですので一番で甲子園優勝と言いますと心に残リますが少し意味合いが違う気がいたします。
 
 私の高校は昭和33年に栃木県の宇都宮高校に延長15回の末8:2で勝ち優勝を致しました。私はその時は小学生でしたが母親と一緒に伊予西条駅まで凱旋する選手を見に行きました。そして中学、高校と野球をして私が高校1年生の時甲子園準決勝で久留米商業に4:2で敗れましたが私はその夏休みの後秋風と共に野球を辞めましたが聖地と言われる甲子園はやはり違うのです。地方大会は勝って当たり前、今では私立高校が強いですが当時愛媛県勢は公立高校が強く今でも夏の大会では全国2位のはずです。PL学園のKKコンビの清原、桑田が出てきてやまびこ打線の池田高校を破り夏はPL学園、大阪が一番かと思います。ともあれ野球を断念するということ、好きなことを辞めることは兎に角寂しいものです。
 
 甲子園は特別の処です。今やリトルで頑張って野球の強い学校に行かれる方も見えますが私はそのようなことは考えませんでした。私が守っていたポジションはショート、そこには中日ドラゴンズに行った髭の森本がいました。遠く先輩では巨人軍の監督だった藤田元司監督、ロッテに行った青野、阪神に行った金子や現在も頑張っている投手の秋山拓巳などがいます。野球以外にも有名人もいますがともあれ今日は野球の話です。

 私が野球を辞めたのは単純な理由からです。先生から「プロで通用しないのだから勉強に力を入れよ」と言うことでした。正直入学時はかなり優秀な方(?)でしたがどんどん下降してきました。最後にはかなり追い込みましたが結果は日記の欄に書いてある通りです。私の学校は松山東高等学校の分校になります。夏目漱石の舞台の「坊ちゃん」の野太鼓が今の校章を作ったと聞いています。普通科と商業科があって野球部は全員商業科でしたが私は普通科でした。もともと大学は勉強をする積もりで行こうとは考えていませんでしたので野球を辞めることに抵抗はありませんでしたが母親から先生への直訴であっさり私は諦めてしまいましたし未練はなかったです。その時にはもう目標は決まていたのです。それが結論でした。

 ただ私はベンチ入りはできませんでしたが甲子園は広く特別な存在でした。まさに汗と涙、勝っても負けても涙です。たったの一校しか味わうことが出来ないのですがそれでも馬渕監督のいうように同じ仲間と頑張ったことは人生において大きな自信と心の支えになるはずだということを知っています。だが何時までも甲子園では仕方がありません。私は卒業して時代は70年安保の世界に突入していくのですがノンポリで小説を書いていつしか同人誌に入り発表をしていました。勿論学校の機関誌にも書いていましたが職業家としてはいくら高度成長の走りだと言っても難しかったです。大学も卒業しサラリーマンになっても同じように同人誌に入って頑張りましたがある事件を境に辞めてしまいました。当時の某雑誌社の記者から随分言われ説得されたのですが辞めてしまった。あのまま書いていたなら私は有名な作家になっていただろうか・・・。多分死を選択するまで追い詰められたのではないかと思います。純文学とはそういうものです。現在のエンタメ的な小説は私にはどうも苦手でせめて中間小説ぐらいに止めておきたいのですが何故か何もかも投げ捨てて会社勤めに全力投球してしまい結果的に体を壊し今の仕事をするしかなくなったという波乱万丈の人生です。しかし、人生って右に舵を切って本意であろうがなかろうがそう切ればそれでまた新しい事実にぶつかって来ます。そんな時困った時、いつも思うのが甲子園なのです。私の甲子園は高校1年生で終わりましたが心の支えの甲子園は今もあのグランドに立っているのです。『聖地』と言われるのはそういう理由があるのです。その部分を断ち切ってしまった今回の大会中止は形は変えてもそれはそれでしかなく甲子園ではなく代替えでしかない、単に一番を目指したということにしかならないのです。終着駅はまだですし出発駅のはずです。よく私はJUJUや竹内まりやの『駅』を好むのはそういう意味もありました。

 今回いろんなスポーツが延期になり来年のオリンピックさえ危ぶまれている今私が野球部の皆さんに言えることは、甲子園に行ける学校は県内1校です。あとの方は目指しても行けない。代表とはそういうものですが現実論として行けた人たちはいいのですが行けなかった方は心の甲子園をいつまでも大事にして欲しいと思います。同じ仲間と目標を掲げて頑張った3年間、大学、社会人でやる方も見えるでしょう。すっかり忘れてしまう方も見えるでしょう。しかし、きっと思い出します。夏が来れば甲子園を思い出すのです。それが青春のシンボルだったからです。人には思い出は色々あります。そして支えはいろいろな形でありますが自分の思い出、甲子園を大事にして欲しいのです。そしていつまでも甲子園に縛られることはない、Good-Bye甲子園なのです。泣くだけ泣けばいい。そして次の目標を早く立てればいい。そこが大事なところです。
 

<今日の言葉>
『大切なことは、大志を抱き、それを成し遂げる技術と忍耐を持つことである。その他はいずれも重要ではない』
                ゲーテ

<今週のYouTube>

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