公開メモ DXM 1977 ヒストリエ

切り取りダイジェストは再掲。新記事はたまに再開。裏表紙書きは過去記事の余白リサイクル。

官選知事時代からの茨城県知事 友末 洋治

2019-06-06 07:19:18 | 日本人
わたしの履歴書 日経で石原信雄がこのように茨城県庁出向を書いている。ここにいたのが友末洋治だった。
『政府は見直しに着手することにし、旧内務省の先輩たちはこの機会に戦前に近い制度に戻すことを考えた。ただ新憲法下で昔のままというわけにはいかない。そこで戦前の官選と新憲法下の公選の双方を経験した旧内務省出身の知事を中心に、全国知事会が行き過ぎた米国流の地方制度の修正案を作ることになった。

その責任者が友末知事だ。論点は教育委員会の公選制廃止、都市警察から都道府県警察への復帰、地方交付税制度の創設など多岐にわたる。友末知事は赴任早々の私に「大蔵省の高木文雄君のところに行って話を聞いて来い」「君の恩師の東大の田中二郎教授と全体の制度設計を相談しろ」と矢継ぎ早に指示した。』
友末知事とは、《友末 洋治(ともすえ ようじ、1900年7月5日 - 1988年10月23日)は日本の政治家。茨城県知事を官選時代に1期、民選時代に3期にわたって務めた。》方である。旧内務省系で茨城県には地縁はないが長く知事を務めている。《1934年頃、大阪府警察部刑事課長時代に同警察部長・富田健治の紹介で合気道創始者・植芝盛平に入門し熱心に学んだ。1940年「皇武会」(後の合気会)の財団法人認可に厚生省体力局体育課長として尽力する[2]。合気道二代目道主・植芝吉祥丸は友末を「合気道の恩人の一人として記憶すべき」と述べている[3]。》Wikipedia 盛平といえば、「白滝王」と呼ばれた北海道遠軽開拓の名士である。そのためか合気道道場も道東に多かった。



コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« しょうがない 申込んでおくか | トップ | Alabama mayor suggested 'ki... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。