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公開メモ DXM 1977 ヒストリエ

切り取りダイジェストは再掲。新記事はたまに再開。裏表紙書きは過去記事の余白リサイクル。

賤民とはなにか「賤民概説」 喜田貞吉

2016-07-05 10:43:56 | 今読んでる本
 本来「百姓」とは、あらゆる姓氏を有するものの総称で、その語にはもとより農民という意味はない。姓氏を有するものはすなわち公民で、には姓氏がない。

「概説」

底本:「とは何か」河出書房新社
   2008(平成20)年3月30日初版発行
初出:「日本風俗史講座」
   1928(昭和3)年10月


「」の研究は我が民衆史上、風俗史上、最も重要なる地位を占むるものの一つとして、今日の社会問題を観察する上にとっても、参考となすべきものが少くない。しかしながらその及ぶ範囲はすこぶる広汎に渉り、予が従来学界に発表したるものの如きは、いずれもこれが一部分の研究たるに過ぎず、しかもなお未だ研究されずして遺されたものまたすこぶる多く、今これを全般に渉って記述せんことは、到底この講座の容さるべきところではない。よってその詳述は、従来既に発表し、もしくは将来発表すべき部分的の諸研究に譲って、ここにはただ、かつて或る融和事業団体において講演せる草案をもととして、その足らざるを補い、なるべく広く多方面に渉って、その沿革を概説するに止めんとする。
 まず第一に述ぶべきことは、いわゆる「」の定義である。言うまでもなく「賤」は「良」に対するの称呼で、もし一般民衆を良賤の二つに分つとすれば、いわゆる良民以外は皆ことごとくであるべき筈である。しかしながら、何を以てその境界とするかについては、時代によってもとより一様ではない。大宝令には民の名目が掲げられて、良民との関係がかれこれ規定せられているが、それはその当時における国家の認めたところであって、事実はその以外に、なおと目さるべき民衆が多かった筈である。またその法文は、実際上後世までも有効であった訳ではなく、ことに平安朝中頃以後には、大宝令にいわゆる中の或る者が、その名称そのままに社会の上流にのぼり、かえって貴族的の地位を獲得したというようなこともあれば、従来良民として認められていた筈のものが、その名称そのままで社会のドン底に沈められ、賤者の待遇をしいられたようなこともある。また一旦落伍して世の賤しとする職業に従事し、賤者の待遇を受けていた程のものでも、後にはそれがその職業のままに、社会から一向賤しまれなくなったという類のものも少くない。したがって古今を一貫して、良賤の系統を区別して観察することは到底不可能である。要はただその当時の社会の見るところ、普通民の地位以下に置かれたものを「」の範囲に収めるよりほかはない。普通民はすなわち良民で、平民である。平民以上のものはすなわち貴族で、それはもちろん今の問題外である。さればこの講座においては、貴族平民以外のものをすべて「いわゆる」として、以下これを概説することとする。




応仁、文明頃の奈良の大乗院尋尊僧正の述懐に、「近日は土民、侍の階級を見ざるの時なり。三党の輩といへども守護国司の望をなすべく、左右する能はざるものなり」とも、また「近日は由緒ある種姓は凡下に下され、国民は立身せしむ。自国他国皆斯くの如し」とも云っている。そしてその応仁、文明の頃から、世間は混乱を重ねて、遂に戦国時代となり、実際胆力の大きい、力量の勝れたものが成功して、下賤のものも立派な身分となる。かかる際において、エタももあったものではない。現にと呼ばれたもので一方の旗頭となり、一城の主となっていたものもある。したがって従来階級に置かれたものも、この際多く解放せられたのであった。
 しかしながらこれはいわゆる成功者の方面に対する観察であって、その反面には失敗して新たに落伍者となったのも、また必ず多かるべきことはもちろんである。「切取、強盗は武士の習い」とか、「分捕功名、鎗先の功名」とか、体裁のよい遁辞の前に、いわゆる大功は細瑾を顧みずで、多くの罪悪が社会に是認され、為にその犠牲となったものが、到る処に発生した。かくてともかくも徳川時代三百年の太平は実現し、落伍者の子孫は永くその祖先の落伍を世襲させられたのであった。
 もちろん徳川時代においても、相変らず社会の落伍者は発生する。そして多くはの仲間に収容される。京都では悲田院の長屋に収容して、やはり警察事務や、雑役、遊芸等に従事させた。当初はそれをもエタと呼んだ例はあるが、後には明らかにエタと区別されている。
 明治、大正の時代になっても、相変らず落伍者は出て来るが、彼らはもはやの名称を以ては呼ばれない。大正十二年の関東大震火災の際に生じた多数の罹災者の如き、もしこれが旧幕時代に起ったのであったならば、いわゆるお救い小屋に収容せられて、となったものも少からぬことであったに相違ないが、今日そんなことを考えるものは少しもない。昔ならば、坂の者、の者となるべき運命の下に置かれたものも、今日では木賃宿へ仮住まいして、自由労働者と呼ばれている。乞胸ごうむねと呼ばれた大道芸人の仲間も今では立派な街上芸術家である。昔ならば家人けにん、ぬひと呼ばれて、階級に置かれた使用人の如きも、今ではサラリーマンと名までが変って来た。今日ではいわゆるは過去の歴史的一現象となってしまったかの観があるのである。
 しかしながら、これあるがために、事実上賤者階級のものが、果して社会に跡を絶った訳ではない。生存競争は相変らず激烈であり、自然淘汰、適者生存の原則はどこまでも行われている。過去におけるが如きの名こそなけれ、名をかえ、形をかえて、相変らず社会の落伍者は存在し、引続き発生しつつあるのである。目のあたり見る今日のこの現象を以て、これを過去に引き当てて考えてみたならば、思い半ばに過ぐるものがけだし少からぬことであろう。今はただ過去における落伍者の動きの大要をかいつまんで略叙するに止め、その詳細なる発表は、さらに他日の機会を待つことにする。

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