公開メモ DXM 1977 ヒストリエ

切り取りダイジェストは再掲。新記事はたまに再開。裏表紙書きは過去記事の余白リサイクル。

『住友銀行秘史』國重惇史

2016-10-09 13:33:42 | 今読んでる本
「当社の資産は 、関連会社を含めたグル ープ合算で約 1兆 3 0 0 0億円ありますが 、このうち約 6 0 0 0億円は不動産や株への投資が固定化してしまったものであり 、何の利益も生まないものです 。逆にその分の銀行借入れの金利負担だけがのしかかっています 。その内訳は 、次の通りになっています 。慶屋 (南青山土地 、伊勢志摩 )約 1 0 0 0億円
杉山商事 (高値づかみ物件 )約 1 0 0 0億円
大平産業 (不動産の固定化 )約 1 0 0 0億円
雅叙園観光 (仕手株と不動産投資 )約 2 0 0 0億円
大和地所他 (海外も含めた不動産投資 )約 1 0 0 0億円

合計約 6 0 0 0億円」

 「のちにイトマン事件が明るみに出ると 、この内部告発文書はさまざまに出回ることになる 。しかし 、これを誰が出したのか 、誰が書いたのか 、当時もいまも 「犯人 」はずっと特定されずにきた 。気付いていた人もいたのかもしれないが 、それは私であった 。」
ーー
國重惇史 (業務渉外部部付部長 )本書の著者 。 6 8年入行 。東京大卒
著者 :國重惇史 (くにしげ ・あつし ) 1 9 4 5年 、山口県生まれ 。 6 8年 、東京大学経済学部を卒業 。同年 、住友銀行 (現三井住友銀行 )に入行 。渋谷東口支店長 、業務渉外部部付部長 、本店営業第一部長 、丸の内支店長を歴任 。 9 4年に同期トップで取締役就任 。日本橋支店長 、本店支配人東京駐在を経て 、 9 7年 、住友キャピタル証券副社長 。銀行員時代は M O F担を 1 0年務めた 。その後 、 9 9年に D L Jディレクト S F G証券社長になり 、同社を楽天が買収したことから 、 2 0 0 5年に楽天副社長に 。楽天証券会長 、イ ーバンク銀行 (現楽天銀行 )社長 、同行会長を経て 、 1 4年に楽天副会長就任 。同年 、辞任 。現在はリミックスポイント会長兼社長 。


ジャーナリストの今西憲之によると、住友銀行の取締役だった國重惇史の著書『住友銀行秘史』について、自身と事件について、根拠薄弱な情報源に基づく事実無根の内容が多数見られるとして、版元の講談社に抗議文を送付し、法的措置の準備も進めているとしている[1]。



この人結局頭取になれなかったことを悔いているのか?東大卒のバンカーとはこの程度の志か。組織の駒であることに喜びが消えないものなのだろう。
この様な告発文書が従業員有志名で回った住友銀行は一旦終了を強いるはずだったイトマン事件。表向きはただの愚かな失敗隠しだが、この事件にはもっと奥があるはず。


『財界 』一九六七年四月一五日号
「住友というグル ープは不思議な企業集団である 。何事をやる場合でも 、その推進役 、中心的存在になった企業は 、途中で 、必ずどこかからクレ ームをつけられる 。ちょっとしたトラブルが起きるわけだ 。ところが 、そのくせ 、最後には 、一致結束してコトに当たることになっている 。この住友の奇妙な習癖は 、おそらく住友御三家と呼ばれている住友銀行 、住友金属 、住友化学の微妙な関係 、金属 、化学の銀行に対する強烈な同格意識」がある。これも伝統の一つかな。


二〇一二年に 「住友御三家 」の一角 ・住友金属工業が新日本製鐵と合併し 、新日鐵住金となった 。住友金属工業の経営陣は合併後も 「住友 」商号を残すことを提案したが 、特定のグル ープに属さない新日本製鐵側がこれを拒否 。 「住友 」商号を外し 、社長会 「白水会 」からの離脱を余儀なくされた 。また 、二〇〇八年に住友石炭鉱業が住石マテリアルズと改称 。二〇一三年には住友軽金属工業が古河スカイと合併して U A C J ( U n i t e d A l u m i n u m C o m p a n y o f J a p a nの頭文字 )と改称し 、 「白水会 」から脱退している 。相次ぐメンバ ーの離脱に 、住友グル ープは二〇一六年四月に住友グル ープ広報委員会メンバ ーの中から大日本住友製薬と住友ゴム工業の 「白水会 」昇格を決めた 。』

こういうオドロオドロもある。

「血判状」──。白水会に出席するグループ企業の社長が、そう例える書類がある。

 住友精神の順守などが定められたこの書類に押印しなければ、白水会への出席は認められない。まさか本当に指を切り、自らの血で押印するわけではないだろうが、決意の固さを示す誓約書のような存在だ。

 決して外部に明かされることのない血判状をめぐり、白水会を二分するような激論が交わされたのが、2012年に新日本製鐵と経営統合した住友金属工業(いずれも当時)の白水会離脱問題だ。

 三井住友銀行、住友化学と並ぶ“御三家”の一角だった住金は当初、「白水会への出席は継続したい」(友野宏社長=当時、11年9月の記者会見で)との意向を持っていた。

 新会社名に住友の名前を残すため、「新日鐵住友」への社名変更も模索したが、新日鐵側が拒否。新日鐵はどの企業グループにも属さず、三菱系や三井系の企業とも取引がある。当時の売上高で約3倍の開きがある新日鐵との合併を選択した時点で、住金側の意向が通る可能性は低かった。

 住金は結局、血判状に押印することができず、白水会を去った。「住友の結束力の源泉は、この血判状にある。住友精神を守れない会社が残っていいはずがない。はんこを押せないのであれば、出ていってください、ということだ」。当時の出席者は打ち明ける。
行人坂の魔物より
 東京には古くから、カネや色の欲に憑かれた男女が吸い寄せられるように集まり、禍事を繰り返してきた不吉な土地が存在する。  本書の舞台である「目黒行人坂」は、そうした因縁の土地の典型だ。  江戸時代初期に道が開かれて交通の要衝となって以来、人々を招き寄せて凶事を繰り返させてきた不吉な土地柄なのである。 「魔物が棲んでいるのではないか」──。そう言われるほど、この地では古くから、不幸な出来事の枚挙に暇がない。  周辺住民のために新しい道を開いた名主が徳川幕府の逆鱗に触れて死罪になったり、破門された破戒僧が寺に放った火が江戸の街を焼き尽くす大火の原因になったり、と。このころは、人間の本能的な欲望が凶事の引き金になることが多かった。  いつの時代も、目黒行人坂は、その時代ならではの混乱と矛盾に翻弄され続けた。  明治維新によって、武家地の接収が大掛かりに行われると、目黒行人坂にあった大名屋敷も存続できず、武家に代わって支配階級となった薩摩藩出身の軍人がこの地の主になった。  その後、大正にかけて東京の土地は本格的に金銭で取引されるようになり、目黒行人坂では短期の土地転がしが繰り返された。土地は富の源泉となり、土地に絡む凶事が起きやすい環境に変わったのである。この頃、時代を代表する新興財閥の実力者たちが行人坂の所有者として記録に名をとどめている。  昭和に入ると、この地のシンボルが登場した。絢爛豪華な内外装で「昭和の竜宮城」と呼ばれた、わが国初の総合結婚式場「目黒雅叙園」だ。  ところが、表舞台の華やかさとは対照的に、水面下ではドロドロとした会社や土地の乗っ取り合戦が繰り広げられていた。暗躍した企業のモラルは決して高くなく、歴史に残るビル火災や経済事件を引き起こしたところもある。  行人坂を巡る混乱は深まる一方で、絡む資金の規模もけた違いに巨大化している。そうした混乱は、平成の世になった今も、一向に収拾されていない。  本書の執筆のきっかけとなった情報が筆者の許にもたらされたのは、例年にも増して暑さが厳しく感じられた平成二四年(二〇一二年)の盛夏のことだった。  それは、あの目黒行人坂で「新たな凶事が起きている」という聞き捨てにできない情報だった。  事の発端は、かつてバブル期最大の経済事件の舞台となった土地で、地元のコミュニティから忌み嫌われた〝ハゲタカ・ファンド〟が強引に進めていた再開発プロジェクトだという。このハゲタカの甘言に乗って資金を融通したメガバンクが窮地に陥り、事態の表面化を恐れて不埒な行為を重ねているというのである。問題のハゲタカ・ファンドは、「向かうところ敵なし。最強のファンド」と呼ばれた米ローンスターで、窮地に陥ったのは三大メガバンクの一角を占めるみずほ銀行という話だった。  信頼できる仲介者が存在したとはいえ、この情報が持ち込まれた経緯はかなり唐突だった。加えて、その内容もまさかこれほどのビッグネームが手を染めるとは思えないような悪質な商法のオンパレードだった。事実ならば、決して聞き捨てにできない話である。  正直に告白すると、一報を聞いた時、筆者は耳を疑った。「あの不吉な土地を担保にして、巨額の融資をするなどという行為を、果たしてメガバンクがするだろうか」と。  そう疑ったのには、それなりの理由がある。というのは、みずほ銀行を含む三大メガバンクは二度にわたり、この目黒行人坂の地で、巨額の不良債権を抱えてその処理に塗炭の苦しみを味わった前歴を持っていたからだ。同じ場所で、同じ失敗を懲りずに三度も繰り返すほど、メガバンクが馬鹿なはずはないと考えたのである。  だが、目黒行人坂には、今なお江戸時代と変わらず、欲に目がくらんだ人たちを惹きつける魔物が棲んでいるようだ。  秋になって本格的な取材を始めると、ローンスターとみずほ銀行だけでなく、新生銀行、三菱商事、ゴールドマン・サックス証券といった大企業が、そろって魔物に魅入られたかのごとく、安易な儲け話に踊らされて、言葉では語り尽くせないような愚行に走った事実が次々と明らかになってきた。その裏側では、地域の共有財産や老舗企業の経営、地元住民の生活が蹂躙されていた。  ハゲタカ・ファンドや外国証券は、一九九〇年代、バブルエコノミーの崩壊に揺れる日本に続々と上陸し、瀕死の状態だった数多くの日本企業の経営権を取得すると、売買ゲームの対象にして思いのまま食い物にしてきた。  本書は、目黒行人坂の地を巡る人々の欲望の記録である。加えて、そうしたハゲタカ・ファンドや金融機関の生態を事実に基づいて記録したノンフィクションである。  そして、この記録は過去の歴史にとどまらず、今、この瞬間もメガバンクと日本を蝕んでいる経済問題をあぶり出す警鐘でもある。  ほぼ一ヵ月後に本書の刊行が迫った平成二五年(二〇一三年)九月から一〇月にかけて、みずほ銀行のショッキングなニュースが新聞やテレビを賑わせることになった。  同行が暴力団構成員など反社会的勢力との取引の存在を把握していたにもかかわらず、二年以上にわたって放置したとして、金融庁から業務改善命令を受けたのだ。問題になったのは、自動車ディーラーの紹介を受けて、グループの信販会社・オリエントコーポレーションが審査し、みずほ銀行が融資する自動車購入ローンだ。二四年秋の時点で件数が約二三〇件、残高は二億円を超えていた。反社会的な勢力との取引など、とんでもない話である。  ところが、問題はそれだけにとどまらなかった。当初、みずほ銀行は、問題の取引の情報が担当役員止まりで経営陣に報告されず、取引の防止や解消のための抜本策が講じられていなかったと説明していた。しかし、時間の経過とともに、担当役員止まりというのは大ウソだったと判明した。同行とその親会社にあたるみずほフィナンシャルグループのトップ経営陣にも合計八回にわたって報告が上がっており、当時の頭取や現職の頭取が責任を問われるべき問題となったのだ。官房長官の菅義偉や経団連会長の米倉弘昌は不快感を表明する異例のコメントを行い、金融庁は追加の行政処分に踏み切る見通しとなっている。  そして、深刻なのは、こうしたスキャンダルが、本書で明らかにした問題と同根である点にある。みずほ銀行は何よりも目先の儲けを最優先する〝収益至上主義〟に陥っており、儲かりそうならば取引の相手を選ばない。加えて、トップに至るまで法令違反に対する善管注意義務が働かないし、問題を外部から指摘される事態に至っても、その事実を矮小化して可能な限り言い逃れを試みる体質が染みついているのだ。  さらに、こうした許されざるべき体質が染みついているのは、みずほ銀行だけではない。新生銀行をはじめとして多くの企業が同じ病魔に冒されていることは、本書で明らかにする通りだ。  その一方で、日本経済は、前年末に発足した安倍晋三内閣が打ち出した経済政策『アベノミクス』に浮かれている。だが、目黒行人坂の魔物がハゲタカたちに産み落とさせたような不良債権が、東京や大阪などの大都市で膨らんでいる可能性が極めて高い。このまま放置すれば、日本経済は、「失われた二〇年」を招いた時と同じように、再び「不良債権地獄」に陥りかねないのである。  なお、登場人物の肩書は、原則として登場時点のものを採用していることをお断りしておく。恐縮だが、敬称は省略させていただいた。  それでは、行人坂の魔物に取り憑かれた者たちの話を始めよう。

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