今回の画像は、29日の施設でのライブで公開する古い写真のスライドショーの一枚です。
※29日の施設ライブに関しては下記の稿で書きました。まだお読みいただいていない方で、ご興味がありましたらどうぞお読みください。
そろそろ準備を...2回めの誕生日会に向けて
2回めの誕生日会に向けて 2
2回めの誕生日会に向けて 3
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2回めの誕生日会に向けて 6
撮影年月は記載されていませんでしたが、「浦賀検疫所」と裏に書かれていました。写っているのは母とその同僚の方たちでしょう。
母は終戦の年は看護学校の学生だったと聞いています。また、卒業後は東京都下の病院に就職したとも聞いています。「浦賀検疫所」の話は聞いたことがありませんでした。
気になってこの検疫所のことをネットで調べたら、ここは、戦争が終わって、外地から引き上げてくる方々の検疫を実施していた施設だったようです。
同じような検疫施設は、全国に12箇所が設置されたそうですが、神奈川県の浦賀はそれらの中で四番目に受け入れ人数が多かったそうで、昭和24年までに約56万人の方を受け入れたそうです。母はその受け入れる場で働いていた一人だったことになります。
昭和21年4月以降には、浦賀の検疫所で受け入れた方々の中から多数のコレラ患者が発生し、その患者の方々は近くの九里浜検疫所に移され、大防疫が実施されたそうです。ただ、終戦直後は医療体制も貧弱だったのでしょう。亡くなられる方が多数いらっしゃったそうで、横須賀市の火葬場では火葬を処理しきれず、検疫所内に仮設の火葬場まで作られたとのことです。
このブログの「伯父の戦記」でも何度か書きましたが、外地で過酷な体験をされた方々は大勢いらっしゃいます。せっかく日本に帰り着いてもなお、故郷に帰ることが出来なかった方も多かったことに悲しみを感じます。
母は、若かった自分がそんな凄まじい医療現場に居たことを語りませんでした。話したくなかったのかもしれません。それほど大変な現場だったことを想像してしまいます。
この写真を背景に、私たちは「翼をください」を演奏する予定です。この曲の歌詞は、「夢・希望・願い」というのがテーマだと思っています。母と同じ世代、またはそれ以上の世代の方々を前に演奏するのですが、母と同じ時代を生き抜いた方々が、この写真を見て辛かったことを思い出してしまったとしても、現在まで長寿を長らえたことを喜んでいただいて、この曲のテーマのような気持ちになってもらえたら嬉しいです。
「翼をください」
今、私の 願いごとが 叶うならば 翼が欲しい
この背中に 鳥のように 白い翼 つけてください
この大空に 翼を広げ 飛んで行きたいよ
悲しみのない 自由な空へ
翼 はためかせ 行きたい
子供の頃 夢見たこと 今も同じ 夢にみている
この大空に翼を広げ 飛んで行きたいよ
悲しみのない 自由な空へ
翼 はためかせ 行きたい
この大空に翼を広げ 飛んで行きたいよ
悲しみのない 自由な空へ
翼 はためかせ 行きたい
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