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農マライゼーション

サラリーマンしながら趣味の米つくりです。無化学肥料・無農薬です。自然農法というよりホットケ農法です。

辛カラサラダ

2011年10月31日 06時50分59秒 | Weblog
イオンで買ってきやサラダ用に刻んだ、開いてドレッシングをかければいいサラダ。
食べてみてにがい。
おいしいサラダが食べたい。

先日、ホームセンターナンバに行くと野菜が並んでいる。
ホームセンターに野菜!
取立てで、あまり農薬も使っていないみたい。
顔色がじつにいい。

ねぎ・キャベツ・レタス・カイワレ・ブロッコリー・しいたけ・ピーマン
950円も買ってしまった。
おまけに私の好きな「辛美人」も売っている。

さ~サラダを作りなさい。
そう誰かが言っているようなめぐり合わせ。

レタスをちぎって、カイワレを水で洗ってソウキで水切り。
ピーマンを細く切る。

青いものばかりになってしまった。
思いついて裏に吊るしてあるタマネギをむく。
最後は大好きなドレッシングをかけてできあがり。

タマネギの辛さは半端じゃない。
かいわれもピリリと辛い。
それに辛美人の唐辛子。

3つの辛さが口の中。
それぞれの辛さをかみしめる。
頭の芯まで響く辛さ。
わさびの突き抜ける辛さとは違うが。

おかげでレタスとピーマンの甘いこと。
こんなに素材の野菜の味は豊かなのか。
これぞ生野菜の味、本物のサラダと確信。

しかし、どんな薬よりも強烈。
体にいいいように思える。

しかし、盛り付け。
ひどい。

初めてのサラダはほろ苦い。
いや、ほろ辛い。

ほんとうに、いきているのが幸せなのだろうか

2011年10月29日 09時44分59秒 | Weblog
人生の問いから正面から向き合わなければならない。
そんな時、いい本との出逢いがある。
新書は比較的一つの疑問に一つの答えを出してくれるのでうれしい。


「ほんとうに、いきているのが幸せなのだろうか?駿介は」

技術的にもすぐれ、人間的にも気持ちが通う介護(ケア)によって、障害のある人が障害の存在を忘れ、自分で自分の身体を動かしているように感じる域に達する介護の熟達とそのように発展させる社会保障が重要である。

そして精神的にはこころを通わせる人がいること、人間関係の中で相互に助け合う状態にあることが、生きていく喜びにつながる大事な問題と。

苦痛がなく、安心できる環境において、「からだ」自体が自分の存在は気持ちよいと感じるであろう。

高谷 清さんの分析はわかりやすいく納得できる。
そして希望がわいてくる。

そしてそんな状態にあるとき、周囲の人は、
「死んだほうがましだ」とか
「いきているのはかわいそうだ」とは思わない。

気持ちが良い「からだ」は、「いのち」が気持ちよく存在しているであろうし、
「こころ」も安心しているであろう。

この人にとりくんでいる人たちは、自分のまた気持ちよく仕事をし、生活し、生きている喜びを感じる。

「生きていることがかわいそうだ」
「生きている方がよいのであろうか」ではなく、
「生きていることが快適である」
「生きている喜びが」という状態が可能であるということ。

そのことを実現していくことが直接関わっている人の役割、人間社会の在りようであると結ぶ。

福祉とは、すべての人のいのちが大切にされること。
 福祉とは、人が自分の心や気持ちを「ありのまま」にだすこと。
  福祉とは、人と人が心を寄せ合い、協力しわかちあうこと。

そんなことはできないと何もやらないのでなく、今できることをすぐに始めることなのだろう。
こころのままに。
サ~駿介のところにいくぞ。

障害→行動→喜び






豪華な朝食

2011年10月28日 07時33分43秒 | Weblog
みんなが「朝は食べているの」と心配してくれる。

妻は「みそ汁作ってるの?」と聞く。
そういえばほとんどつくっていない。

インスタントのものはにごった味がしてやめてしまった。

一つ作ってみるか。
今朝はみそ汁が加わった。
鍋におわん一杯の水を入れてつくったら、お椀に入れると一杯。
具の容積を考えていなかった。

もやしを入れたので少し水っぽかったがまずまず。
みそ汁は頭をしゃんとさす。
できるだけみそ汁つくってみようか。

みんなもこれで安心するだろう。

朝日ににおう山桜花

2011年10月27日 06時31分47秒 | Weblog
阿波八幡神社の花祭り。
11日3日に氏子が五穀豊穣、家内安全などを祈願、感謝して色彩豊かな造花を奉納する。
その造花は「花」とよばれ、材料は竹、木、色紙などを使って10月中ごろに作られる。

写真はしおれ竹。
主軸は割り竹で紙を巻き伸ばして柳の枝のように作る。
わが地区では3年前から「柳」から「花と葉」に替えた。
私の小さい時は「花と葉」であったが、いつからか、つくりやすく見た目が美しい「柳」になっていた。
復活。



花と言えば桜。
小さい時、桜に葉があるのはおかしいと思っていたが、山桜ならば納得。

昔の人が柳と桜を好んだことに驚きを隠せない。
「桜と柳」に姿に自らの人生を重ね合わせたのは間違いない。

そして最近、「しきしまのやまと心を人とはば、朝日ににほふ山ざくらばな」
という本居宣長の和歌に出会う。

日本人の純粋無垢な心情を示す言葉として表した。
たしかに、サクラは私たち日本人が古来からもっとも愛した花である。
そしてわが国民性の象徴であった。


大和魂とは、ひ弱な人工栽培植物ではない。
自然に生じた、という意味では野生のものである。
それは日本の風土に固有のものである。
その性質のあるものは偶然、他の国土の花と同じような性質を有しているかもしれない。

だが本質において、これは日本の風土に固有に発生した自然の所産である。
また、私たち日本人のサクラを好む心情は、それがわが国固有の産物である。
サクラの花の美しさには気品があること、
そしてまた、優雅であることが、他のどの花よりも「私たち日本人」の美的感覚に訴えるのである。

阿波には樹齢550年といわれる「尾所の桜」がある。
ソメイヨシノの短命と違い、尾所地区に生きている。
本居宣長の和歌は戦争の特攻隊の組名、「霧島隊」「大和隊」「朝日隊」「山桜隊」として利用され、敬遠される向きもある。

しかし、本居宣長は1700代の人。
古来から山桜が愛されたことは間違いない。

「尾所の桜」はそれより前1500年代に植えられた。
尾所地区に根ざし、愛されたのは間違いない。
その文化、風土が私たちの郷土にあることに湧き上がる気持ちを隠せない。
こころして、誇りを持って、受け継いでいかねば・・・
「尾所の桜」のように。




詩と田

2011年10月25日 06時43分11秒 | Weblog
一番上の田んぼは稲刈、脱穀が終わったが2番目、3番目の田んぼはごらんのよう
コナギを採ることができず、草に負け、株が出来ていない。

しかし、懸命に実り、色づいている。
草と共存。
自然の中で、与えられた環境の中で素直に生きた美しさよ。

自然の詩が聞こえる。
稲の旋律。

「あなたのことを書いてある」と妻が「婦人之友」を差し出した。
羽仁もと子著作集の中の抜粋。
「詩と田」

田を作らない人間に詩はできるものでない。
田を作るのと詩をつくるのは別々の仕事ではなく、実に自然なつながりの中にあること。
そして詩を生むためでなければ、人間に田を作る必要は決してないとまでも。

これには私もビックリ。
しかし、言えなくはない。
深くわかっている人の言葉である。

そして結びは
喜び哀しみ、何につけても、素直な人の情(こころ)には、詩歌があり祈りがある。
かくして、到るところに清き詩の泉、歓びのオアシスがつくられていくと。

歌房の歌房たるゆえんか。
面目躍如。
妻が私のことをわかってくれてうれしい。
「友の会」さまさま。

妻曰く
「講釈ばかりではダメ。やってみにゃ~ということネ」と。

確かにやってみないとわからない。




祈りの正解

2011年10月24日 06時34分05秒 | Weblog
看護師さんは痰を取り、顔を拭き、歯磨きをする。
そして駿介の場合は草履をはかす。

偏平足にならないように。
投げ出された足はやけに目立つ。
草履をはかせたら、歩いているよう。
黒いズボンがよく似合う。

看護師さんの「良くなれ良くなれ」と心のこもった介護がうれしい。

ベットの上には5つのお守り。
お守りで病気が良くなるかと思っていたものだが最近はうれしい。



お守り。
自分のためには買わない。
神社に行って愛すべき人の幸福を願って贈るもの。
他の人の幸福への願いの象徴。

もし神様がいれば、送られた人も送る人も喜ぶ願いをかなえてやろうと思うはず。
ともかく、駿介の幸せを祈っている、その気持ちがうれしい。
妻と娘の買ってきたお守りもある。

3人でクイズ番組を見る。
正解を言い合う。
妻の正解を「すごい」と言って誉める。
私の正解も「すごい」と言って誉めてくれる。

しゃべれたらきっと一番正解が多いのは駿介。
「駿介はすごいんだから」と妻が誉める。
私は笑顔でうなずく。



このひと時が幸せの時であることは間違いない。
幸せは近くにある。
自分の心にある。
その幸せがまわりの人にもあったら2倍も3倍も幸せ。

幸せは願い、祈りつづけるその時その時の中にあるとふと気づく。
神のおかげは確かにある。

祈りの中にある。
自分の心の中にある。
人の心の中にある。

神を信じるとは祈りの心なのか。
人の幸せを願い、その幸せを喜ぶ。
信仰とはきっとこういう心根なのだろう。







顔のマッサージ

2011年10月23日 06時51分26秒 | Weblog
妻の顔のマッサージは手荒だ。
猫なで声で「しゅんゃ~ん」といいながら顔を近づけて頭突き。

口唇ををグニョとつまむ。

はたきもはいる。
目をシロクロ。



しかし駿介は実に素直。
心にテレはない。

うれしそう。
駿介はかつて「パパはわかっていない」と言っていた。

スキンシップ。
私も頬ずりしてみようか。



「バカ」と言っているようだが、実にカワイイ。




「いただきます」「ごちそうさま」

2011年10月20日 05時28分29秒 | Weblog
Tさんからさば寿司をいただいた。
私の大好物。
酢の力がさばとご飯をおいしくする。

だんなさんも好きだそうだ。
誰かのために作る料理がその家族の味になる。
そしてさば寿司は引き継がれてきた。

今の季節が一番おいしいのだろう。
鯖もそして米も。
そしておいしいからつくり継がれた。

「いただきます」は命をいただくことに対してのお礼。
「ごちそうさま」は漢字で「ご馳走さま」
多くの方が走り回ってくれたおかげへの感謝。

食は人に良いこと。

食べることを大切にする人は、自分の命を大切にできる人。
食べることに感謝できる人は、自分の命に感謝できる人。

すると、自然に、自分のこの「命」を何か大切なものに「使」いたくなる。
そこから始まるものが、あなたの「使命」

ひすいこたろうさんは「朝にキク言葉」の中で書いている。

人間多くの命をいただいている。
いや殺して食べている。
それを知った若き時その罪深さに胸が詰まったものだ。

その頃の私は自殺してもいいと思っていた。
しかし今は違う。

大海原を泳ぎ回ったさば。
愛情込めて送り出された米。
そしてつくった人に思いをはせながら口にする。

「いただきます、ごちそうさま」
そしてお命使わせていただきます。

命を使わないと命は続かない。
命が命をつくりだす。
命を無限にいただいて今を生きる。
もう私だけの命で決してない。

命しか命をつくりだせない。
だから命は続く。
永遠に。

命を魂に置き換えることもできる。

愛にも心にも。



花いっぱい

2011年10月19日 06時51分33秒 | Weblog
通勤途中、田んぼのコスモスに車を止める。

きれいである。
見事である。

配色が調和している。
ウキウキしてくる。

今朝はふとんから出るのが億劫になる冷え込み。

コスモスの花はこの冷え込みで色を濃くする気がする。

4枚重ね着で外に出てみる。
6℃である。
空の上はマイナスか。



身が引きしまる。
はでぼしの籾も引き締まっているだろう。

大きなモニター

2011年10月18日 06時48分48秒 | Weblog
待ちに待ったパソコン。
ようやく駿介のところにやってくる。

大きなモニター。
見つめている。

家で使っていたトラックボールをつないでみる。



ポンターが動いた。
まだうまくは動かせない。
クイックまでにはかなりかかりそう。

しかし、駿介の真剣な目。
今までにない目。
その目に可能性を感じる。

「この宇宙で一番大きなものって、自分の可能性だよ」とひすいこたろの本に書いてあった。
「限界というから限界ができる」とも。

天井の前に大きなモニター。
ここから大きな可能性が生まれる。
宇宙も見える。

可能性は無限。
ゆっくりであるが、喜んでつきあって行こう。


2つの笑い顔

2011年10月17日 06時21分24秒 | Weblog
2つの葬式が終わった。

藤木さんは92歳のおばちゃんのとつながっていた。
デイサービスでお風呂に入れていたと聞いたのである。

哲子おばあちゃんの死に顔をみさせていただいた。
なんと笑っているのである。
前の日、自宅で見させていただいた時は笑ってはいなかった。

藤木さんの祭壇。
1000本の花、10000枚の花びらに藤木さんの写真。
さわやかな笑い顔。

花は好きだった山野草でないので、「くすぐったいわ~」と言っている。
しかし、花好きの藤木さんにはふさわしい。
こんなきれいな祭壇を私は見たことがない。

人と人
魂と魂。
人の魂と花の魂。
それはあるにきまっているじゃないか。

お棺の中はその花で埋め尽くされた。
埋めつくさえれ、別れはやってきたけれど二人の魂は私の中に行き続ける。

笑いの後に最後の黙祷に藤木さんの心に答えられなかった自分のふがいなさが・・・。
藤木さんへの申し訳なさに涙がこみあげる。
もっともっと一緒にあたりまえの夢を追い続けたかった。

「うたふささ~ん」
今、藤木さんがいつものように家の外で私を呼んだ。
今日は何を畑に植えるのだろう。
大きな目が笑っている。

2つの魂

2011年10月15日 06時36分48秒 | Weblog
藤木さんと同調するかのように近所のおばあさんが亡くなった。
92歳の大往生。
道上からうちの家を見下ろせる所に家はある。

私や藤木さんの農作業を見つめていたのであろう。

小林秀雄さんが「魂はあるに決まってきるじゃないか」と言っていた。
私の魂、藤木さんの魂、おばあちゃんの魂、それぞれある。

昨日はお通夜。
不思議なことに2つのお通夜続けていくことができた。

本日の葬式も2時間ずれで参列できる。
2つの魂に出会えることができる。

不思議であるが、3つの魂、調整した。
そうとしか思えない。
私の心の中には2つの魂が生き続ける。

悲しき知らせ

2011年10月14日 07時03分44秒 | Weblog
藤木悦子さんが逝去された。
あまりに近い人なので様は適当でない。
なぜか「さん」
「藤木さん」
敬語も使わない。

病気療養中であったが、昨日携帯でご主人から訃報。
まさか。
夏にご主人と2人で畑に来てくれたのに。
これが最後の別れとなった。

私の百姓を影で支えてくれたのは藤木さん。
私は米つくり、藤木さんは畑つくり。
お互い助け合ったが私の方がいっぱい助けてもらっている。

籾播きから脱穀まで。
思えば藤木さんが居ない時はなかった。

じゃがいも・トマト・ねぎ・・・・・
数え切れない野菜をいただいた。
野菜のおいしさを教えてくれた。

野菜つくりが根っから好きだった。
夜遅くまで1人で畑ということもたびたび。

阿波の自然をこよなく愛してくれた。
阿波に住みたいとも言ってくれた。
農作業を終えると山野草を見に一緒に畑を飛び出した。

写真のいいそは藤木さんがどこからともなく藁を調達してくれてみんなでなったもの。
今年は私一人でそのいいそを使った。
藤木さんはその時私の心にいた。

今、ありがとうというしかない。
こころをこめてありがとうございました。
あまりのいい思い出をのこしてくれたこと、感謝の手を合わす。


はでぼし

2011年10月13日 06時46分12秒 | Weblog
昨日、こっそり田んぼを覗く。
一昨日かけたはでは大丈夫かと。
はで足がかなり古く去年は折れたのである。

案の定、この写真の手前のはでが半分つぶれていた。
そこでやり直し。
やはり1本折れていた。

3本足の1本が折れたら弱いもの。
くずれてしまう。

「折れるかナ」と思ったが「ま~いいだろう」と思うのが私の悪い癖。
しっかり確認すればいいものを。

またやってしまったかと笑いながらやり直し。
慣れたものと喜んで30分。

おかげでブログが書けずじまい。

朝もやの 中のはでぼし ほろにがし


殿に変身、やわらかな心

2011年10月11日 06時30分54秒 | Weblog
妻からのはじめて写真が送られた。
携帯から。

T君から借りた変装グッズ。
看護師さんや先生とワイワイがやがや変身遊び。
ピースサインでパチリ。
お父さんに送れとみんな言う。

見た瞬間、「なんと不謹慎な」という気持ちが頭を走る。
しかし、妻からの話を聞いて「これもありかな」と思え始めた。

セトモノとセトモノとぶつかりっこするとこわれてしまう
どちらかやわらかければだいじょうぶ
やわらかなこころをもちましょう

これは法話のCDの広告にかいてあった。
続きがあり

私の方が柔らかな心で、
相手が瀬戸物だと思ったら、その心が瀬戸物の証拠です。
「私が瀬戸物だったな」と気付かせていただく心がやわらかい心。

ホント私の心は瀬戸物。
松江の連中の茶目っ気が理解できないのだから。

幸せだよのメッセージ。
確かに受け取った。
やわらかな心とともに。