退院してから数日は本調子ではなく、少しふらつき気味の私だったが、その後は身も心も元気になりつつある。
18日、退院から11日目、担当医の指示で通院し、まずは採血、胸部レントゲン撮影を済ませて待合室で呼ばれるのを待った。
平日なのであまり混んではいなかったが、待っている人は高齢者ばかり、若い人の姿は見られなかった。
予約は10時だったが診察が始まったのは11時過ぎだ、まずはレントゲン写真を見ながら 「肺はきれいになりましたよ」 と医師から説明を受けた。
同時に血液検査の結果も大きな問題点は無いとのことでまずは一安心した。
その後、話しをしたが救急車で搬送されて来た私を見た医師は 「死ぬかと思った」 そうで、その言葉は意外だった。
もしかしたら、私は死の世界に逝く可能性があったらしいとのことだった。
医師が患者に対し死について語るのはあまり無いことだろうが、その時の私はかなり危険状態にあったらしく、それは血中酸素飽和度が78%と低かったのと顔色も悪かったので医師はそのような憶測を持ったのかもしれない。
だがそのような低い値だったが、私自身があまり自覚症状が無かったのも不思議なことらしい。
私はこの医師の言葉を聞いて 「生かされた」 と、見えない私への多くの応援団に向って厚い感謝の念を抑えることができなかった。
今は経過も良好なので、肺の炎症とアレルギーを抑える薬を内服しているが、この薬も今後5週間、1週間隔で量が減るように処方されたので、6月下旬にまた通院して診察する予約を取った。
入院したその日からこの若い医師にはお世話になっている。上から目線で接することもなく応対も好感が持てる。
驚いたのはカルテに入力する時のキーボード上の指操作の速さは抜群のスピード、Delete キーなど使わないからその正確性も高いと推測した。
その日は長男が車で病院まで送ってくれた。
帰りはイトーヨーカドーで買い物があったので、病院の送迎バスを利用して東村駅西口へ。
買い物が終ってから駅周辺を歩くと、今は 「線路の高架化工事」 が真っ最中、剥き出しの鉄骨が不気味だが、やがては整備された駅周辺となることだろう。
特に西口広場は懐かしい。
戦後のある時期までは駅の出口は西口だけだった。
それはまさしく 「停車場」 と呼ぶのが相応しい閑散とした田舎駅前の狭い路地空間だったことを想い出した。
でも帰りの電車の中ではやはりあの医師の 「死ぬかと思った」 との言葉が浮かんだ。
神さまは 「まだ、お前にはやる事があるだろう?」 と、切れかかった私の命を繋いでくれたのだろう。
これからもMの介護を頑張るしかない。
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