先週、今週とあちこちで、集団的自衛権行使容認とした内閣に様々な批判、抗議や反対の運動がされていると思います。地方議会へ、意見書採択を要望しているところもあるでしょう。
先日の中日新聞に北原みのりさんの興味深いインタビューがありました。矢継ぎ早に政策を打ち出し、ブルドーザーのように主権者の権利を押しつぶす現内閣の姿勢は戦後の日本の高度成長時代の押せ押せのやり方の延長上にあるものであって、今の時代にはこのような姿勢はもう早通用しないものとして、改められなくてはならないという指摘がありました。そこで、より小さなもの、より静謐なこと、よりゆっくりなこと、より非力なものが、かえってこの野蛮な政権に対して、衝撃をあたえるのではないか、と考えさせられました。
筆者は、今日は思い立って、個人の自由な活動として、夕方繁華街の街頭に立ってみました。「集団的自衛権反対」などと書いた紙を持って小一時間立ちました。全くひとりだったので少し躊躇はありましたが、思い切って。
近くに路上ライブをしている小グループがあって、こちらもなんとなくほっとしていたら、初めの曲が終わって次は「悲しくてやりきれない」の歌でした。どうしてそれを、と聞きたかったのですが、ついに聞きそびれました。
立っていると、こちらはなにも言わず動きもせずなので、多くの方がなんだろうと紙を覗きこんでいかれました。かなりの方がちゃんと文を読んでいってくれるようでした。ほとんどの方はそうして立ち去るのですが、杖をついたある男性は少し遠くを通りながら「ん、いいこと書いてあるね。僕も反対。」と言いながら連れの方と歩いて行かれたのがわかりました。
5,6人の中学生ぐらいのおしゃれな男の子たちが寄ってきました。「俺はこのテーマ、結構語れるぜ。いつもニュース見ている、反対だ」、「俺も反対」というので嬉しくなって、よかったら5分でいいから一緒に紙持って、と頼んだらちょっとだけ、持ってくれました。
ピアスをたくさんつけて、まだあどけなさの残る顔で、とてもきれいな目をした男の子たちだと思いました。不安を持ちながらも、自分たちや未来のこと、社会のことをまじめに考えようとしているんだなと思い、彼らに戦争や徴兵という未来を残したくないと思いました。
「集団的自衛権とは何」と、質問してくるので答えていたら、気持ちは「反対」でも「応じなきゃ仕方がない」んだろう、と思っていることがわかって少し驚いてしまいました。なぜかというと、「同盟国が責められたのに日本が助けに行かなかったら、逆のとき日本が助けてもらえないんだろう、だから仕方がない、助けてもらえるために日本も行かなきゃならない」と思っているようです。
政府はこんな純粋な若者を欺こうとしているのでしょうか。少し話したいと思っていると、仲間の子どもたちが合流して立ち去ってしまいました。最後に、紙を持ってくれた子に、「私は殺すのも殺されるのも嫌だからね」というと、「僕もそうだ」と答えてくれました。
思うに、こちらにも多様な言葉が必要であり、自分と異なった考えや、相手の気持を理解する必要があるのでしょう。
最後にひとりで立ってみて、心細くなかったかというと、やはり緊張はありましたけれども、必要以上に恐さを感じることはありませんでした。
私は今までの自分の人生の中で、多くの尊敬すべき素晴らしい方に直接、間接に出会ってきましたが、不思議と立っているとき、今は世を去ったこれらの方々の思いというか、志というようなものが、なんだか、私とともに在ってくれている、ひとりではないというような胸の熱くなるような感覚があったのです。
東北学院大学の教員を務め、仙台北教会のオルガニストであった川端純四郎先生、この方は哲学が専門でありながら教会音楽の分野で一流の業績を残された方ですが、憲法9条、平和、人権の事柄にも生涯、主体的、熱情的にに取り組まれました。(こちらが一方的に尊敬しているだけで、むこうはわたしのことはなにもご存じないと思います。)
もう一方は、群馬県でお会いした石黒寅亀牧師、当時既に90歳を超え、柔和で柔らかい笑顔、小柄なご老人でしたが第2次世界大戦後、一貫して反戦、平和運動に身を捧げ、数度の逮捕を経験し、マークされたのでアメリカには入国禁止とされていた、骨のある方でした。この方とその生涯の晩年にいくどかお会いして、お話や交流が許されたことは忘れることができません。この方と同じ空気を吸って、同じ時代に生きることができて幸せだ、と思ったのを今もありありと思い出します。もちろんほかにも、例を上げることができます。
ひとりであってひとりではないという感覚に包まれたのはどうしてか、不思議でしたが、感慨を覚え、感謝なことでした。また、近々立ってみようと思います。もちろん複数で行えばよりよいかと思います。
今生きていて、顔を合わせたことのない人たちも思いが同じであれば、小さなものでも活動がお互いの励ましになっていると思います。
先日の中日新聞に北原みのりさんの興味深いインタビューがありました。矢継ぎ早に政策を打ち出し、ブルドーザーのように主権者の権利を押しつぶす現内閣の姿勢は戦後の日本の高度成長時代の押せ押せのやり方の延長上にあるものであって、今の時代にはこのような姿勢はもう早通用しないものとして、改められなくてはならないという指摘がありました。そこで、より小さなもの、より静謐なこと、よりゆっくりなこと、より非力なものが、かえってこの野蛮な政権に対して、衝撃をあたえるのではないか、と考えさせられました。
筆者は、今日は思い立って、個人の自由な活動として、夕方繁華街の街頭に立ってみました。「集団的自衛権反対」などと書いた紙を持って小一時間立ちました。全くひとりだったので少し躊躇はありましたが、思い切って。
近くに路上ライブをしている小グループがあって、こちらもなんとなくほっとしていたら、初めの曲が終わって次は「悲しくてやりきれない」の歌でした。どうしてそれを、と聞きたかったのですが、ついに聞きそびれました。
立っていると、こちらはなにも言わず動きもせずなので、多くの方がなんだろうと紙を覗きこんでいかれました。かなりの方がちゃんと文を読んでいってくれるようでした。ほとんどの方はそうして立ち去るのですが、杖をついたある男性は少し遠くを通りながら「ん、いいこと書いてあるね。僕も反対。」と言いながら連れの方と歩いて行かれたのがわかりました。
5,6人の中学生ぐらいのおしゃれな男の子たちが寄ってきました。「俺はこのテーマ、結構語れるぜ。いつもニュース見ている、反対だ」、「俺も反対」というので嬉しくなって、よかったら5分でいいから一緒に紙持って、と頼んだらちょっとだけ、持ってくれました。
ピアスをたくさんつけて、まだあどけなさの残る顔で、とてもきれいな目をした男の子たちだと思いました。不安を持ちながらも、自分たちや未来のこと、社会のことをまじめに考えようとしているんだなと思い、彼らに戦争や徴兵という未来を残したくないと思いました。
「集団的自衛権とは何」と、質問してくるので答えていたら、気持ちは「反対」でも「応じなきゃ仕方がない」んだろう、と思っていることがわかって少し驚いてしまいました。なぜかというと、「同盟国が責められたのに日本が助けに行かなかったら、逆のとき日本が助けてもらえないんだろう、だから仕方がない、助けてもらえるために日本も行かなきゃならない」と思っているようです。
政府はこんな純粋な若者を欺こうとしているのでしょうか。少し話したいと思っていると、仲間の子どもたちが合流して立ち去ってしまいました。最後に、紙を持ってくれた子に、「私は殺すのも殺されるのも嫌だからね」というと、「僕もそうだ」と答えてくれました。
思うに、こちらにも多様な言葉が必要であり、自分と異なった考えや、相手の気持を理解する必要があるのでしょう。
最後にひとりで立ってみて、心細くなかったかというと、やはり緊張はありましたけれども、必要以上に恐さを感じることはありませんでした。
私は今までの自分の人生の中で、多くの尊敬すべき素晴らしい方に直接、間接に出会ってきましたが、不思議と立っているとき、今は世を去ったこれらの方々の思いというか、志というようなものが、なんだか、私とともに在ってくれている、ひとりではないというような胸の熱くなるような感覚があったのです。
東北学院大学の教員を務め、仙台北教会のオルガニストであった川端純四郎先生、この方は哲学が専門でありながら教会音楽の分野で一流の業績を残された方ですが、憲法9条、平和、人権の事柄にも生涯、主体的、熱情的にに取り組まれました。(こちらが一方的に尊敬しているだけで、むこうはわたしのことはなにもご存じないと思います。)
もう一方は、群馬県でお会いした石黒寅亀牧師、当時既に90歳を超え、柔和で柔らかい笑顔、小柄なご老人でしたが第2次世界大戦後、一貫して反戦、平和運動に身を捧げ、数度の逮捕を経験し、マークされたのでアメリカには入国禁止とされていた、骨のある方でした。この方とその生涯の晩年にいくどかお会いして、お話や交流が許されたことは忘れることができません。この方と同じ空気を吸って、同じ時代に生きることができて幸せだ、と思ったのを今もありありと思い出します。もちろんほかにも、例を上げることができます。
ひとりであってひとりではないという感覚に包まれたのはどうしてか、不思議でしたが、感慨を覚え、感謝なことでした。また、近々立ってみようと思います。もちろん複数で行えばよりよいかと思います。
今生きていて、顔を合わせたことのない人たちも思いが同じであれば、小さなものでも活動がお互いの励ましになっていると思います。