某教会の連中は聖書を霊ではなく言葉で読み過ぎている感がある。だから観念的な相克が争い事になるのだ。
般若心経のもつ力には感動したけれど、詩編でも体があたたまった。心とからだが癒されていく気持ちのよさがある。
キリスト教は思念が一方的で嫌いな箇所はあるけれど内容なんて関係なしに読めばいいのだった。結局経典は霊性や言霊が問題。高い霊性に促され、無理して考えなくても自然に開けていく。
所詮言語は一過性のもの。無理して考えれば多神教と衝突する。一車線の道に2台目が強引に舞い込んできて接触するのと同じ。時間は一方通行だ。余計なことを考えず、ただ訓読するのがいい。訓読している間に神が宿るものだ。曹洞宗は修行それ自体が悟りであると教える。それと同じ。
キリスト教は思念が一方的で嫌いな箇所はあるけれど内容なんて関係なしに読めばいいのだった。結局経典は霊性や言霊が問題。高い霊性に促され、無理して考えなくても自然に開けていく。
所詮言語は一過性のもの。無理して考えれば多神教と衝突する。一車線の道に2台目が強引に舞い込んできて接触するのと同じ。時間は一方通行だ。余計なことを考えず、ただ訓読するのがいい。訓読している間に神が宿るものだ。曹洞宗は修行それ自体が悟りであると教える。それと同じ。
心は互いに影響を受ける。悪霊を宿した人と一緒にいると普段ほがらかな人もイライラしだす。
悪霊ではなく深層心理によるものであり無意識のうちに互いにブロックがはめ込まれていくからだという解釈では、般若心経による現象まで説明するのに不十分だ。
悪霊ではなく深層心理によるものであり無意識のうちに互いにブロックがはめ込まれていくからだという解釈では、般若心経による現象まで説明するのに不十分だ。
気質的損失がなければ人間は元通りになる。
それは指でたとえられる。横に切断したらもう生えてこないけれど縦に裂かれた場合ならやがて元通り機能するようになる。
それは指でたとえられる。横に切断したらもう生えてこないけれど縦に裂かれた場合ならやがて元通り機能するようになる。
なんとかなると思っているうちはなんとかなる。それはなんとかなってしまう因果律のうちにあるから。のほほんと過ごしていてもなんら問題がない。
反対になんとかならないものかとあくせくするのは負の因果関係が結ばれているから。そう焦るとおり、早めになんとかしたほうがいい。
反対になんとかならないものかとあくせくするのは負の因果関係が結ばれているから。そう焦るとおり、早めになんとかしたほうがいい。
音楽を勉強する人はウイーンへ行き
ヨーガを極める人はインドへ行き
美学の神髄に触れたい人はギリシアへ行く。
それはお金を稼ぎたい人が日本へ来るのと同じでそこへ行かなければならない本質的な理由がある。
ヨーガを極める人はインドへ行き
美学の神髄に触れたい人はギリシアへ行く。
それはお金を稼ぎたい人が日本へ来るのと同じでそこへ行かなければならない本質的な理由がある。
これは悪い手本だと子供に教えるべからず。悪いとわかっていてもインプットしたものを具現化するのが人間である。親はよい手本を探す努力をしなければならない。
行こう行こう。とらわれのない世界へ。悪心や鬱は般若心経を唱えてもらえばなおる。般若心経は心をゆるくする。唱えると肩や背中が妙にあたたかくなる。意味がわからなくても唱えれば唱えるほどいい。
本質的な力を持つ人に会ってから、霊の存在は当たり前で普通のことだと思えてきた。自分らは知っていると声を高々と神の存在を訴える宗教団体のような態度は鬱陶しい。彼らは実際にはそこまでわかっていない。感じられる程度だから急進化しているんだろう。
プラーナや気が流れることも当たり前のことだった。寝る時右足を左太もものうえにおいていて気持ちがいいなぁと思って懐いていたら超人的なパワーが与えられ、背骨がくきっくきっと少しずつ直されていった。傷んだ精神もヒールされていった。不思議なもんだなぁ。
本質的な力を持つ人に会ってから、霊の存在は当たり前で普通のことだと思えてきた。自分らは知っていると声を高々と神の存在を訴える宗教団体のような態度は鬱陶しい。彼らは実際にはそこまでわかっていない。感じられる程度だから急進化しているんだろう。
プラーナや気が流れることも当たり前のことだった。寝る時右足を左太もものうえにおいていて気持ちがいいなぁと思って懐いていたら超人的なパワーが与えられ、背骨がくきっくきっと少しずつ直されていった。傷んだ精神もヒールされていった。不思議なもんだなぁ。