④ 聖徳太子のころの天皇・政治・日中外交の描き方のちがい
各社の違いが全体にわたっているので、実物コピー引用では、原則として各社の該当ページ全部を引用掲載する。(※「飛鳥(仏教)文化」の部分は省略する。)
なお、大きく違っている《十七条憲法とその心》・《日中(隋)関係》を描いている部分については各社とも赤下線を引いている。
■基礎知識 <ウィキペデア:聖徳太子>より
・「聖徳太子(しょうとくたいし、敏達天皇3年1月1日(574年2月7日) - 推古天皇30年2月22日(622年4月8日))は、飛鳥時代の皇族、政治家。厩戸王または厩戸皇子の後世の諡号。用明天皇の第二皇子、母は欽明天皇の皇女・穴穂部間人皇女。
推古天皇のもと、蘇我馬子と協調して政治を行い、国際的緊張のなかで遣隋使を派遣するなど大陸の進んだ文化や制度をとりいれて、冠位十二階や十七条憲法を定めるなど天皇を中心とした中央集権国家体制の確立を図った他、仏教を取り入れ神道とともに厚く信仰し興隆につとめた。」
※注(松永)・・・上記中に「聖徳太子虚構説」が紹介されている。慎重に読んでいくと、どうやら《日本には聖徳太子の存在と業績をうとましく目障りに思う人々》がいるらしい。 このことが各社の中学歴史教科書の聖徳太子関連の記述に影響しているかも…
■実物コピー
【育鵬社】
1400年も昔の日本の、誇り高く毅然たる姿が浮かんできますね。
「人々に重い負担をかけたため」 滅びた「隋」と「中華人民共和国」がだぶってみえますが…
~次回、自由社4ページ~
<全リンク⇒1へ> 天皇<55・①索引など56・②仁徳天皇陵57・58・59・③系図60・61・62 ④聖徳太子63・>
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