東横『学芸大学駅』近くの産直パブ、地元に必要なお店として。明るく楽しく、天を敬い、人を愛する。楽しく飲みたい

美味しい産直料理 元気楽しいスタッフ、カラオケ&トークで盛り上がり、ストレス解消♪、常に新風!良心的なお店。

李登輝物語 1

2009年10月07日 23時12分46秒 | 愛すべき台湾
李登輝』氏について、
日本でも馴染みの人物かと思えば、そうでもない事に気がついた、
昨日、Hさん(自転車転倒事件)の人に至っては年齢が年上なのに名前も知らない、
まさか、新聞読まない人??
まあ、世の中、知らない事が有る事が悪い事ではない、
チョイと李登輝先生についてのお話、奇跡の人と私は常々思う人物、
まだ生きている東アジア最大の巨星、巨人とさえ言える人物、
1988年1月 台湾総統に就任した、本省人(台湾人)として初めて総督になった人物、
その後、台湾の民主化に大成功を収め、当時台湾を日本と並ぶ外貨準備高を持つ国と成長させた。
その中心的役割、この李登輝先生がいなければ台湾の急上昇はなかったとも言える。
さて、
この李登輝先生確か、戦争当時、日本の京大農学部?で学んだ人、終戦前に召集され、陸軍歩兵部隊に配属された、
この李登輝先生、何度も命を落としかけた。
知りうる限りでは、何処から入るか??余りにも話題の多い人物、またまだ歴史上の人物ではないのでその話題にも事欠かない。
『奇跡の人の軌跡』
1、昭和18年、神戸港から台湾に戻る船、船に乗る為の学徒生が一人足りない、
それでその船に乗れず、次の船に乗船、予定は船は敵の魚雷攻撃で沈んだ、
運が良かった。神の御加護か。
2、二度目に船中の奇跡、戦後、日本から帰る時の船でも、悲惨な目に遭った、
下田から船は出た。
唐津港で船中に天然痘の病人が出た、その病人は唐津港で降ろされらが、
台湾の基隆港についたが、唐津の検疫所から基隆港に電報が届いていて、患者が天然痘であったとの知らせ、
その為、全員、下船禁止の憂き目に遭い、目の前の台湾の山々を眺めながら不快な船中で20間を過ごす事になる、
この時、『何既明』さんと李登輝氏が初めて出会う。
船中はまるで戦中の様相になった、食糧が乏しい、この船に乗っていたのは留学生だけは無く、
厚木の海軍関係の工場に徴用されていた人々がいた、船中おのずから2派に分かれた、
工員達が勿論元気がよく、工員達は船内で暴動を起こし、炊事場と食糧を独占した。
学生達は飢えて騒いだが、どうにもならない、
その時、騒ぎにも加わらず、大仏のようにいつも正座し、本を読んでいた青年が李登輝氏で有る、
『何既明』さんは、この時の李登輝氏に何を見たのだろう、
何さんは工員達に微妙な好意につけいり、一人分だけの食糧を手に入れ、李登輝氏に食べさせた、
無事、天然痘にもならず、ならず者の餌食にもならず、無事下船出来た。
二人は台湾の地を踏んでどう思ったのだろう、是非、聞いてみたい。
この時から李登輝氏と何既明氏の付き合いが始まる。
全く対照的な二人で有る、
李登輝氏はコンテでくっきりと線を引いたような秀才顔、
何既明氏は消しゴムで顔全体を消したようなぼやけ顔、
二人の接点を書き出すと長くなるので割愛、(カナダ長老派教会&地元繋がり)
3、台湾の戦後、
極悪非道政権、蒋介石の国民党は元々、中国国内でアメリカやイギリス等の資金物質戦略的支援を受けながら中国国内では奪略の限りを尽くし、
全く民衆の支持がない政党になっていた、私物化の権化の政党その為に民衆は日本軍が撤退した後は共産党支持になるしかなかった。
大陸を中国共産党が抑えた為、大陸で居場所を失った略奪政党の国民党は
敗退し台湾に大挙大波のように押し寄せ、台湾の民衆の上に武器を持って覆いかぶさり、占領した格好になった。
台湾の民衆にしてみればたまったものではない、
当初は同胞と思いきや、全く、私利私欲の暴力的集団、極悪非道のシナ人が大挙押し寄せ、言論統制、略奪暴行は当然、
知識人はことごとく捕らえられ、簡単に処刑、
若い李登輝氏も追われる立場になった、その危機を救ったのが『何既明』氏で有る。
戦後から1年半後に起きた2.19事件の時、
『これや、李さんも危ない、のんびり屋の世間知らずの李さんだ、何処にも逃げていないだろう、こりゃ、オイラが助けんきゃ、ならん』
と、多分、日本語で考えた、
若い頃の何既明氏はひとつ年上の李登輝氏の身を心配し、自宅の蔵の中に隠し、これまた食事を与え、粛清の嵐が収まるのを待った。
まさか、この時も何既明氏は李登輝氏が後に総統になるとは思いもよらなかっただろう。

軌跡は続く、
李登輝氏の強運、天は彼をして、台湾の民主化の為に生きながらえさせたのではないかとすら思えなくもない。
その後の李登輝氏はアメリカ留学や台湾の大学教授などを歴任し、その後、台湾の農業復興の専門家として、蒋介石の息子の蒋経国の知遇を得る。
1978年蒋経国より、台北市長に任命される。
何故、蒋経国は李登輝氏を台北市長に任命したのか?
憶測では有るが、私心のない、敬虔キリスト教徒、真面目で読書家、真剣に台湾の民衆の為に仕事に邁進するその一環した言動が蒋経国の警戒心を和らげたのだろう、
蒋経国は『まあ、こいつに任せとけば、いいようにやってくれるし、横領の心配もない、少し生真面目で説法臭いところ有るがそこは少し辛抱すればいい、少しは内省人も使わねばならんし、』
その容貌、目が嘘を言わない目、邪心のなさが蒋経国を安心させたとも言える。
また、当時、政権への反発も民衆から出ていて、暗殺未遂の目にも遭っていた事も有り、蒋経国は内省人を政府内で使い内省人を懐柔しなければならないと考えたのだろう、
奇跡への道筋が開いたと言える。
蒋経国は蒋介石の息子で、蒋介石から秘密警察等を担当し、陰湿な仕事をして来た人物で有る。
分かり易く言えば、言い方は悪いが、北朝鮮の金日成の息子で後継者の金正日みたいなモノで有ると言えば分り易い、
さて、この極悪政権の蒋一家の国民党の総統、蒋経国は徐々に変わっていった、何故、変わったのか?
また明日へ、、。

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« NHK捏造報道の不思議 1 | トップ | 身動きの取れない朝 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

愛すべき台湾」カテゴリの最新記事