明治の産業遺産の登録決定 「徴用工」表現、日韓が合意
また、韓国は約束を平気で破る国で有る事を自ら証明、
国際公約すら平然と破れる韓国、
恥を知らない国家
小汚い事をして、
勝った勝ったと喜ぶ小者達(韓国人)
当初、
登録審査は日本が先だったのを、
韓国が妨害して、
日本は後回し、
先に韓国の登録を審査、
日本と韓国は外相会談で合意しているから日本も賛成!
韓国の登録が承認された。
その後、日本の登録審査、
その時、韓国が問題有りと提議し、
紛糾!
結果、
もつれにもつれ、
韓国の我が儘が通ってしまった。
将来に遺恨を残す始末となった。
やっぱり韓国は嘘つき、
この話は日韓和平合意に基づき、
解決済の筈、
そして韓国は莫大なお金を日本から貰った。
因みに、
台湾の徴用工の話
実際、徴用工として台湾から来た方々から直接聞いた話、
◎、日本の冬は辛かった。
◎、賃金なんて殆どなく、
食事もろくなものではなかった、
◎、しかし、日本と一緒に戦う、
その勝利に向かって全身全霊を掛け、戦った、
その結果、私達は技術を身につけて、
戦後台湾の飛躍的発展に貢献出来た、、
◎、忘れられない恩、
たまの休み、お金もなく、
何処も行けなかったが、
工場の近くの方が、
『お腹空いてるでしょう』
とおにぎりを下さった。
あの時のオニギリの味は今での忘れられない。
この話を直接聞いた時には
涙が出た。
その後日談、
日本の民間団体
『李登輝友の会』が台湾の元徴用工の皆さんを台湾に訪ねた時
戦中、大変なご苦労を皆様にお掛け致しました。
深々と頭を下げた。
ところが、徴用工の皆さんの代表が、
『そりゃ、違う。』
と、手を振って、笑顔で否定した。
我々も確かにキツかったです。
しかし、同じ年頃の日本人の青年は特攻隊として死んで行ったんですよ、
我々は感謝してます。
日本で過ごせたから今が有るんですと、
胸を張って言う。
実際、徴用工だった方から聞いた話です。
韓国と大違い、
以下、
國民新聞 より転載
【台湾人元少年工
第二の故郷、日本で卒業・在職証書受ける
「日台親善寄与」を称える李登輝氏の祝辞披露 家族等六百人訪日して式典】
六十年前の大東亜戦争中、
台湾の十代半ばの少年約八千四百名が、
「B29」米軍
爆撃機を迎撃する日本軍の「雷電」戦闘機等の製造に従事するために応募、
厳しい選抜試験を突破し神奈川県大和市の高座海軍工廠へやって来た。
向学心の旺盛な少年工員等は未来の飛行機技師を夢見て、
一生懸命働きながら勉強
した。
戦後、
元少年工は日台間の民間交流の先頭に立って親善交流を続けるなど、
全員が親日家だ。
七十歳代になった元少年工とその家族約六百人が台湾から来日。
十月二十日、
座間市民文化会館で開かれた「台湾高座会留日六十周年歓迎大会」(主催・石川
公弘大会実行委員長)に出席した。
式典当日の午前、元少年工は大和市内の善徳寺境
内に建つ慰霊碑を参拝し、
また五十周年大会の際、
大和市へ寄贈した台湾亭を拝観した。
また、台湾の陳小扁総統から大会を記念して「敦睦邦誼迎向未来」の揮毫が大会に
贈られた。
式典は物故者への黙祷が行われた後、
石川委員長が主催者を代表して
「台湾の兄さんお帰りなさい。修了証書問題についての日本国の対応は必ずしも皆さんを満足させ
ていないかも知れないが、多くの日本国民は、
あの厳しい状況の下で見事にその責任を果たした皆さんの血の滲む努力と、
戦後における日台友好への貢献を高く評価し、
今回の来日を心から喜んでいる」と歓迎の辞を述べた。
厚生労働省の中沢勝義社会援護局業務課長から、
旧制中学校卒業と同等学力として取扱われる工員養成見習科の卒業証書三十九名分と工廠勤務の在職証明書千二百名分
が台湾の二十一区会の元少年工各代表者に手渡された。
これを受けて、
「台湾高座会」の李雪峰会長(78)は感謝を述べると共に、
病気で欠席した元教官の早川金次海軍技士について
「早川先生は私達を親身になって指導されたほか、
空爆で犠牲になった台湾少年工の霊を慰めるために善徳寺に慰霊碑を建立し、
更に訪台して遺族を慰問された。
その崇高な姿に我々は涙し、深い感銘を受けた」とお礼の言葉を述べた。
続いて、
李登輝前総統の祝辞が披露された。
「皆様は昼夜兼行で戦闘機製造に励み、
その過程で、
共に働く日本人との間に深い友情を築いた。敗戦を迎え帰国後、鍛
えられた規律、精神力、習得した技術力を活かし、
世界が驚く台湾の工業化に尽くされた。
皆様と私の共通点の一つに、
共に抱く日本への深い連帯感がある。
台湾高座会こそ、
台日の絆の内で質量共に最大ではないか」。
元労相の甘利明衆院議員の挨拶や多くの来賓の祝辞に続き、
「高座日台交流の会」の野口毅会長(78)は
「戦時中は日本のために働いてくれて、戦後間もなく、皆さ
んは我国との永遠の親睦を祈り、
この大和の地に台湾亭を建築、寄贈して頂いた。血肉を分けた兄弟だ」
と共に工廠で働いた時の苦労を労った。
更に「日台両国に国交はないが双方の間に地下水脈が流れている。
これを世界に向けて噴水にしなければならない。
台湾正名運動を進めて、栄光の台湾を目指そう」
と日台協調の必要性を強く訴えた。
駐日台北経済文化代表處の羅福全代表は
「真の国と国の関係は政府間ばかりではない。
皆さんの友好関係が本当の姿」と称えた。
「日本李登輝友の会」の阿川弘之会長は
「今回、皆さん方一同は工員養成所の教官を想い出し
『仰げば尊し』を合唱したいと言われ、私達は深い感銘を受けました。
今日の日本人より日本の心、
大和魂を六十年間、
心にしまっておかれた。日本人よ、
日本の心を取り戻しなさいと教えてくれたことに、深くお礼を致したい」
と感謝の言葉を述べた。
最後に、会場の約千二百人全員が「仰げば尊し」を合唱して第一部を終えた。
第二部はアトラクション。
昨年、三度訪台し日台親善の演奏活動を行う早稲田大学
グリークラブシニアによる合唱と海老名鵬祥会による漢詩吟詠、更に少年工出身の台
湾万葉歌人の和歌が女子挺身隊員として共に高座海軍工廠に勤めた佐野た香さん等に
よって朗詠された。
また会場の隣室には、
当時の写真約百点が展示され、
元少年工の黄茂己さん(76)は日本人の奥さんと共に懐かしがって食入るように見ていた。
当日夕方、横浜プリンスホテルで日本高座会(呉春生会長)主催の晩餐会が開かれ
た。二十二日は靖国神社で厳粛に慰霊祭が営まれた。戦歿された台湾少年工は当時十
三―十五歳の六十柱だった?
また、韓国は約束を平気で破る国で有る事を自ら証明、
国際公約すら平然と破れる韓国、
恥を知らない国家
小汚い事をして、
勝った勝ったと喜ぶ小者達(韓国人)
当初、
登録審査は日本が先だったのを、
韓国が妨害して、
日本は後回し、
先に韓国の登録を審査、
日本と韓国は外相会談で合意しているから日本も賛成!
韓国の登録が承認された。
その後、日本の登録審査、
その時、韓国が問題有りと提議し、
紛糾!
結果、
もつれにもつれ、
韓国の我が儘が通ってしまった。
将来に遺恨を残す始末となった。
やっぱり韓国は嘘つき、
この話は日韓和平合意に基づき、
解決済の筈、
そして韓国は莫大なお金を日本から貰った。
因みに、
台湾の徴用工の話
実際、徴用工として台湾から来た方々から直接聞いた話、
◎、日本の冬は辛かった。
◎、賃金なんて殆どなく、
食事もろくなものではなかった、
◎、しかし、日本と一緒に戦う、
その勝利に向かって全身全霊を掛け、戦った、
その結果、私達は技術を身につけて、
戦後台湾の飛躍的発展に貢献出来た、、
◎、忘れられない恩、
たまの休み、お金もなく、
何処も行けなかったが、
工場の近くの方が、
『お腹空いてるでしょう』
とおにぎりを下さった。
あの時のオニギリの味は今での忘れられない。
この話を直接聞いた時には
涙が出た。
その後日談、
日本の民間団体
『李登輝友の会』が台湾の元徴用工の皆さんを台湾に訪ねた時
戦中、大変なご苦労を皆様にお掛け致しました。
深々と頭を下げた。
ところが、徴用工の皆さんの代表が、
『そりゃ、違う。』
と、手を振って、笑顔で否定した。
我々も確かにキツかったです。
しかし、同じ年頃の日本人の青年は特攻隊として死んで行ったんですよ、
我々は感謝してます。
日本で過ごせたから今が有るんですと、
胸を張って言う。
実際、徴用工だった方から聞いた話です。
韓国と大違い、
以下、
國民新聞 より転載
【台湾人元少年工
第二の故郷、日本で卒業・在職証書受ける
「日台親善寄与」を称える李登輝氏の祝辞披露 家族等六百人訪日して式典】
六十年前の大東亜戦争中、
台湾の十代半ばの少年約八千四百名が、
「B29」米軍
爆撃機を迎撃する日本軍の「雷電」戦闘機等の製造に従事するために応募、
厳しい選抜試験を突破し神奈川県大和市の高座海軍工廠へやって来た。
向学心の旺盛な少年工員等は未来の飛行機技師を夢見て、
一生懸命働きながら勉強
した。
戦後、
元少年工は日台間の民間交流の先頭に立って親善交流を続けるなど、
全員が親日家だ。
七十歳代になった元少年工とその家族約六百人が台湾から来日。
十月二十日、
座間市民文化会館で開かれた「台湾高座会留日六十周年歓迎大会」(主催・石川
公弘大会実行委員長)に出席した。
式典当日の午前、元少年工は大和市内の善徳寺境
内に建つ慰霊碑を参拝し、
また五十周年大会の際、
大和市へ寄贈した台湾亭を拝観した。
また、台湾の陳小扁総統から大会を記念して「敦睦邦誼迎向未来」の揮毫が大会に
贈られた。
式典は物故者への黙祷が行われた後、
石川委員長が主催者を代表して
「台湾の兄さんお帰りなさい。修了証書問題についての日本国の対応は必ずしも皆さんを満足させ
ていないかも知れないが、多くの日本国民は、
あの厳しい状況の下で見事にその責任を果たした皆さんの血の滲む努力と、
戦後における日台友好への貢献を高く評価し、
今回の来日を心から喜んでいる」と歓迎の辞を述べた。
厚生労働省の中沢勝義社会援護局業務課長から、
旧制中学校卒業と同等学力として取扱われる工員養成見習科の卒業証書三十九名分と工廠勤務の在職証明書千二百名分
が台湾の二十一区会の元少年工各代表者に手渡された。
これを受けて、
「台湾高座会」の李雪峰会長(78)は感謝を述べると共に、
病気で欠席した元教官の早川金次海軍技士について
「早川先生は私達を親身になって指導されたほか、
空爆で犠牲になった台湾少年工の霊を慰めるために善徳寺に慰霊碑を建立し、
更に訪台して遺族を慰問された。
その崇高な姿に我々は涙し、深い感銘を受けた」とお礼の言葉を述べた。
続いて、
李登輝前総統の祝辞が披露された。
「皆様は昼夜兼行で戦闘機製造に励み、
その過程で、
共に働く日本人との間に深い友情を築いた。敗戦を迎え帰国後、鍛
えられた規律、精神力、習得した技術力を活かし、
世界が驚く台湾の工業化に尽くされた。
皆様と私の共通点の一つに、
共に抱く日本への深い連帯感がある。
台湾高座会こそ、
台日の絆の内で質量共に最大ではないか」。
元労相の甘利明衆院議員の挨拶や多くの来賓の祝辞に続き、
「高座日台交流の会」の野口毅会長(78)は
「戦時中は日本のために働いてくれて、戦後間もなく、皆さ
んは我国との永遠の親睦を祈り、
この大和の地に台湾亭を建築、寄贈して頂いた。血肉を分けた兄弟だ」
と共に工廠で働いた時の苦労を労った。
更に「日台両国に国交はないが双方の間に地下水脈が流れている。
これを世界に向けて噴水にしなければならない。
台湾正名運動を進めて、栄光の台湾を目指そう」
と日台協調の必要性を強く訴えた。
駐日台北経済文化代表處の羅福全代表は
「真の国と国の関係は政府間ばかりではない。
皆さんの友好関係が本当の姿」と称えた。
「日本李登輝友の会」の阿川弘之会長は
「今回、皆さん方一同は工員養成所の教官を想い出し
『仰げば尊し』を合唱したいと言われ、私達は深い感銘を受けました。
今日の日本人より日本の心、
大和魂を六十年間、
心にしまっておかれた。日本人よ、
日本の心を取り戻しなさいと教えてくれたことに、深くお礼を致したい」
と感謝の言葉を述べた。
最後に、会場の約千二百人全員が「仰げば尊し」を合唱して第一部を終えた。
第二部はアトラクション。
昨年、三度訪台し日台親善の演奏活動を行う早稲田大学
グリークラブシニアによる合唱と海老名鵬祥会による漢詩吟詠、更に少年工出身の台
湾万葉歌人の和歌が女子挺身隊員として共に高座海軍工廠に勤めた佐野た香さん等に
よって朗詠された。
また会場の隣室には、
当時の写真約百点が展示され、
元少年工の黄茂己さん(76)は日本人の奥さんと共に懐かしがって食入るように見ていた。
当日夕方、横浜プリンスホテルで日本高座会(呉春生会長)主催の晩餐会が開かれ
た。二十二日は靖国神社で厳粛に慰霊祭が営まれた。戦歿された台湾少年工は当時十
三―十五歳の六十柱だった?
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます