おきのえらぶ島 なんでも情報

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恐怖の沖永良部台風を過ごした家 #沖永良部台風#恵勲#恵 浩一 #元田作二

2016-09-12 19:24:23 | 日記


昭和52年9月9日の台風9号は、沖永良部島に最接近するのは 翌日以降の予報であった。


当日の午後7時にはまだ風も無く 台風対策もせずお店からビールを買い、友人の教員宅に飲みに出かけた。

そこには数人の飲み仲間が集まった。



話はそれるが、
私の沖永良部高校時代の部活動は「軟式テニス」

その延長で、#大阪電子専門学校 を卒業後、勤務先のNEC横浜工場では神奈川県でも強いNEC軟式テニス部に入部した。

昼食休憩時や、アフターファイブには神奈川県でもトップレベルに数えられる先輩部員に指導してもらった。

基本から教えてもらった。
自分一人でボールのネット打ちの繰り返しの毎日。

その甲斐あって、手首が強くなるとともに 高低差があるボール、バウンドボールもことごとく拾い、打ち返す技術が自然と備わってきたのを今でも覚えている

やっとコートで先輩とペアを組み練習試合をした時は夢のような気持ちだった。



話がよそ道にそれたが、台風9号を前に飲んだ教員宅は、周囲が竹やぶや雑木に囲まれた古ぼけた民家。


楽しく飲んでいる内に停電し、雨漏りがひどくなった。


屋根のテレビアンテナが音を立てて倒れる音にみんな真剣な顔になった。


FMラジオからは、台風9号が沖永良部島に上陸したとの放送が流れてくる。


飲み仲間も帰るに帰れない暴風雨状態。


又、教員には幼児が3人おり うち一人は内城小学校勤務時代に産まれた乳幼児。


教員から、万一の時は飲み仲間一人ひとりが、3人の子供たちを抱えて、すぐ隣の家に避難する役割をお願いされた。


幸い四方を竹林や雑木で覆われていたので 家が倒壊すること無く夜明けを迎えた。



朝 自宅に帰ろうと県道にでた。

停めてあった乗用車は無残にもドアガラスが粉々に割れていた。電柱も先日の投稿と同じ状態で
道路に倒れ 垂れた電線を避けながら自宅に帰った。


自宅は直ぐ近くだが迂回しないと 車が通行できない。 途中 親戚の家が跡形なく吹き飛ばされていた。

心をよぎったのは「父親に 酷く叱られるだろう」と覚悟を決めながら帰宅。


幸い我が家は見た目は余り被害が無い。
父は、「大丈夫だったか?」と叱ること無く 無事だったことが叱る気力も失せったらしい。

築3年の我が家は、当時流行りのアルミサッシガラス戸だった。

最低気圧900ミリバール前後の時間帯は(現在のhPa) サッシガラス戸が家の内側に曲がり、父と妹が畳でガラス戸が割れないように必死に畳を一晩中押し続けた、、と 妹から聞いた。

当時のことを言われると 妹には頭が上がらない。


今日畑から帰りに当時の民家跡を覗いてみたら、昭和52年9月9日の沖永良部台風時に過ごした、恵 勲 先生 妻の恵スエ子家族の事が脳裏をかすめ 記憶を思い出しながら投稿しました。







今では幼児達も立派な大人になり、長男 恵 浩一くんは 県内で医師として活躍している。


この廃屋が 一瞬にして 39年前を思い起こさせてくれました。



和泊町の軟式テニス普及は、内城小学校からと言っても過言で無い。

同小学校の体育教諭、恵勲先生と テニス好きの 元田作二校長が アフターファイブや休日を利用し、テニスコートを作り、私や 本部忠孝、前田八郎 、伊地知賢裕、永野清次 氏などが集まり 同好会を組織し のちに和泊中学校のテニス部を指導するに至っている。

(それ以前に、現体育館敷地に、テニスコートが設営されていたから、内城小学校のテニス歴史は昭和40年代に遡るかも)

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