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NEOMAP Web Forum

総合地球環境学研究所プロジェクト4-4「東アジアの新石器化と現代化:景観の形成史」のwebフォーラム

琉球WG 奄美ミーティング

2009-06-09 16:46:23 | 琉球WG
琉球WGの奄美ミーティングがありました。

奄美市教育委員会にお世話になり,
奄美市「赤木名地区景観事業」整備委員会の方々とともに研究会を行いました。
それぞれの立場から,さまざまな意見が交換されました。

奄美新聞と南海日日新聞に掲載されましたので,
アップいたします。
(makiba)

琉球WGシンポジウムに参加して

2008-12-15 20:00:18 | 琉球WG
12月13日に沖縄県埋蔵文化財センターで開催された『琉球縄文時代の謎』に参加してまいりました。
琉球地域に人類が適応したのはいつからか?という問題について、高宮広土さんと伊藤慎二さんが発表を行いました。
 高宮さんは、縄文時代中期末から後期に人々が沖縄諸島に適応したという解釈を提示されました。高宮さんの適応とは人々がいるだけではなくその社会が再生産に成功している状態をさします。その観点からすれば、後期以降は遺跡数が大幅に増加する後期以降が該当する、それを可能にしたのが海洋資源と堅果類の利用システムの確立にあるという理解です。また、世界的に先史時代に植民された島々の地理的特徴をみると大型で大陸に近いという特徴があるが、その点では沖縄本島はどちらかといえば小型で大陸からも遠いという特徴を指摘されました。そのうえ、縄文早期・前期にあたる時期には陸上動物(イノシシ)という不安定な食料資源への依存度が高いと思われ、生業面からも断絶した可能性は低くないと述べられました。
 それに対し、伊藤さんは、土器の形態や文様が前代の特徴を何かしら受け継いでおり連続性があること、居住システムの変化にも段階を経て変化していることなどから、これらの連続的あるいは段階的変化は居住の歴史に断絶があったとは考えにくく、継続的な居住の開始期にあたる縄文時代早期末頃から適応したと理解する方が良いとしました。また、太平洋上にある人類の居住が断絶した島の考古資料を観察すると、交易の断絶により必要な生活物資が調達できなくなり、質の悪い現地産の資材で道具を作る場合がしばしばあることが分かるが、沖縄本島の考古資料には看取できないことも紹介されました。
 最後の飯田卓さんのコメントは興味深いものでした。縄文早期・前期は第1段階の適応(人口の比較的少ない社会として適応)、後期以降は生業の変化あるいは栽培の導入により人口増を伴う第2段階の適応というように異なるレベルの適応と理解することもできるのではないかとのことでした。
 私の雑感を1つ。これはスケールの問題でもあると思いました。高宮さんのように長い時間スケールでみると縄文後期とそれ以前の格差がより明瞭になる。伊藤さんのようにより細かな変遷を追いかけると各時期の特徴が相対的に強調されるのではないか?それが2つの異なる評価を生み出す一因でもあるように感じました。実は最近景観のほか考古資料の解釈を行う時に時間と空間のスケールを意識して使い分けることが必要なのではないかと考えており、またそうした視点はGISなどで定量的分析行うさいにも案外重要な視点になるのではないかと考えつつあります。
 半日でしたが、ほかの先生2名からも発表があり、大変勉強になったシンポジウムでした。開催にご尽力下さった皆様に厚く御礼申し上げます。
(おおき)

シンポジウムの告知

2008-08-11 19:21:46 | 琉球WG
 9月17日に奄美大島にて『現地に学ぶ奄美の環境』というシンポジウムを開催いたします。
 日程等は、下記の通りです(添付のファイルもご覧頂ければ幸いです)。

 ■日時:2008年9月17日(水)17:00~19:30
 ■会場:奄美文化センター(奄美振興会館)第二会議室
 ■講演:薗 博明 (環境ネットワーク奄美)
     半田ゆかり (奄美哺乳類研究会)
     四本龍太郎 (奄美島立会物流センター)
  司会:大西秀之(同志社女子大学)

 なお、この研究会のコンセプトは、既存の研究会の多くが、現地との対話と言いながら、外部から来た研究者が主体となって報告&議論を行ってきたことの反省に立ち、現地で環境問題に関わってこられた方々のお話を聞くことにあります。
また、この研究会では、「ローカルナレッジの再評価」などの名の下に、現地の現状を十分に理解することなく、自身の「科学的知見」や「政策提言」にとって都合の良い部分のみを利用してきた外部の研究者の実践を、下記の論点を踏まえながら批判的に検討したいと考えています。

 1.自然科学主導の環境把握ではなく、シマの人々がどのように自然を認識し、自然と付き合ってきたかを人文社会科学の側からとらえる。
 2.外部の研究者が一方的に現地の人々に知識を伝えるのではなく、現地の人々のどのような知識を有し、いかなる活動を行っているか理解する。
 3.外部者の側には、研究者のみならず、都市部の一般の学生を交え、彼ら/彼女らと現地の人々の対話を促す。
 4.外部の研究者は、なるべく聞き役に徹し、従来の押し付け型の参与を再検討する。
 5.このような検討を通して、現地の人々が何を求めているかを理解し、人文社会科学の成果がいかなる貢献を果たしうるかを考える。

 ご関心のある方は、ポスターの問い合わせ先までご連絡ください。

 大西秀之


奄美大島の調査

2008-06-26 15:31:06 | 琉球WG
6月13日の琉球WGミーティングに引き続き、6月15~22日の1週間、
奄美大島の民俗調査に行ってきました。奄美大島は、政策的にコメの
栽培が導入された土地であり、また昭和の減反政策の影響で現在は
限られた集落でしか稲作が行われていません。にもかかわらず、
コメは象徴的に「上位」の食べ物であるという意識が現在までも継続し、
明らかにコメを祀った豊年祭なども実施されています。
このコメに対する意識が、大島の生活史のなかでどんな意味をもち、
どのように表象されてきたのか、主にコメ用の食糧倉庫である高倉の
現状調査を中心に、考えていくのが目的です。

調査のひとつの柱は、現存する高倉の悉皆調査。集落をくまなく歩いて
高倉をマッピング、および聞き取り調査をしていこうという、
炎天下にはなかなか厳しいものではありますが、捜査は・・・いえ、調査は足です!
今回は笠利・佐仁集落で実施しました。「原日本語」が残っているという説も
ある、歴史の古い集落です。3つの高倉を見つけましたが、
2つはもう人が住んでいない廃屋にあり、もう1つは壊れたまま
放置されていました。全体にこの集落の高倉は、完全に朽ちゆく過去の遺物
という印象です。高倉は全体として、現存しても使用されていない例が
ほとんどのようですが、その中でもたとえば龍郷・秋名集落の高倉は、
もっとメンテされていました。秋名では稲作が続いているが、佐仁では完全に
稲作が廃されているという事実が、高倉を使う使わないにかかわらず、
「大事にされ方」に影響しているのでしょうか? 今後の調査を通して考察を
進めていきたいと思います。お楽しみはこれからだ。

調査のもうひとつの柱は、佐仁、秋名といった大島北部の集落と比べて、
稲作・高倉文化の要素が薄い大島南部では、食糧植物にどんな価値づけが
されているかを調べることです。今回は、こちらは下見のみ。大島の南に
接する加計呂麻島で、美しい海を堪能いたしました(その後、フェリーの
時間に遅れかかって地獄の疾走をする羽目になるとは、知る由もなく・・・)。(Leo)