ジューンベリーに忘れ物

シンボルツリーはジューンベリー
どこかに沢山の忘れ物をしてきた気がして

コロナ一色だけど 特記

2020-12-19 18:08:12 | 思い
 ▼ 各地から大雪の知らせが聞こえてくる。
1ヶ月位前から病院クラスターで、頻繁に取り上げられている旭川だが、
そこに住む義弟から夕方、家内にメールがあった。

 「雪が降り積もり、今日は家の前を3回も雪かきでした。
老体にはこたえます・・・」。

 伊達は同じ北海道でも雪の少ない所だが、
それでも、4日連続で朝の雪かきだった。
 と言いつつ、申し訳ないが、わずか数センチの積雪だ。
老体にこたえる程ではない。

 それにしても、コロナだ。
北海道では、札幌の感染拡大が、
今、道内各地に広がっている。
 ついに伊達にも、その足音が聞こえてきた。

 冬本番だけでも、行動が制限されるのに、
その上、コロナ禍だ。
 外出しない日が、ずっと続きそうだ。

 2階の自室に巣ごもりする時間が、
益々多くなるだろう。

 さて、こんな時を好機にできるかどうか。
問われているように思う。

 ここ数ヶ月、友人らから3冊も出版本が届いた。
「『緊急事態宣言』で思いもしない時間ができたので・・」。
 中には、出版の動機について、そんな添え書きのものも・・・。

 私は今冬をどう過ごすか。
まだ定かではない。
 人生、永遠な訳じゃない。
「いつかやろう!」は、そろそろ通用しない年齢だ。

 「わかっている!」と呟きつつ、さてさて・・・。
ただ淡々と春を待つ日々にはしたくない。

 ▼ なんやかやと思いつつ、今年も残り半月を切った。
1年を振り返ると、世界中みんなコロナ一色に違いない。

 私の今年もその色が濃いが、2つの事を特記したい。
1つは、1月末のA氏逝去に心揺れていたことだ。

 いつもはるか先にいた方だった。
決して越せないと思いつつ、
それでも遠い彼の背中を追っていた。

 『「ツカちゃんもやるねぇ!」。
冗談半分でもいいから、
いつか彼からそんな声が聞けたら・・』。

 そんな想いが、ずっと心に染みついていた。
これからは、どう頑張ってもその願いは叶わない。

 気づくと、日常の何気ない瞬間に、
ふっと寂しさが押し寄せてきた。
 「慣れだよ!慣れ!慣れること!」。
何度も何度も言葉にしてみた。

 今、ようやく、
小さな一文を書き上げても、
「ツカちゃんもやるねぇ!」を期待しなくなってきた。
  
 ▼ 14年も前の夏に、
詩集『海と風と凧と』を出版した。  

 勤務校の最寄り駅近くの書店や、
自宅そばの本屋、千葉市内のデパートの書籍売場で、
しばらく平積み販売をしてくれた。
 売れ行きはともかく、出版祝いの声がたくさん届いた。

 出版からしばらくしてからだ。
同じ区内校長らの懇親会でのことだ。 
 当時、校長会長は女性だった。
その先生が、私の詩集出版の紹介をしてくれた。
 そして、詩集の一編を朗読した。

 実は、それまで私が書いたものを、
私以外の人が声にしたのを聞いたことがなかった。

 やや高い澄んだ声で、彼女は読み始めた。
静かに耳を傾ける校長らに、ややテレながら私も聴き入った。

 途中から、胸が高鳴った。体中が熱くなった。
その朗読は、私のイメージを越えていた。
 予想とは違うトーンで、彼女はその詩を声にしていた。
私の想いよりも、ずっとずっと素敵な情景が広がった。
 別物の詩のように思えた。
  
 それ以来、残念だが、私の書いたものを、
誰かの声で聞くことはなかった。

 ところが、家内が言い出した。
朗読ボランティアのサークルで、勉強会があると言う。
 どうやらそこでメンバー1人1人が、朗読を披露するらしい。
「私、あなたのエッセイを読もうと思うの。いいかしら」。

 家内が読みたいと言ったのは、
私の思い出が詰まった『スタートライン』だった。
 どう朗読するか、興味があった。
 
 私が自室に籠もると、
居間から練習する声が時折聞こえた。
 でも、一度も私に聞かせることなく、
家内は、その勉強会へ行った。

 「全然だめ、うまく読めなかった」。
帰宅するなり、家内は何度も言った。
 そして、「聞いてみる」と、
ボイスレコーダーをテーブルに置いた。

 聞き慣れた声が、静かに私の言葉を語っていた。
私が思い描こうとしたことよりももっと、
その声は豊かにその場を伝えていた。

 聞きながら、新しいエネルギーを受け取っていた。
 
 今年の特記2つ目である。
そのエッセイを転記しておく。

  ◇    ◇    ◇    ◇    ◇  

      スタートライン

 昭和46年3月、北国の春は雪解けから始まります。
しかし、その年は春が遅く、根雪がまだ窓辺をおおいつくし、
やわらかな春の陽差しを遮っていました。

 私は、なんとか大学を卒業し、
教員として東京へ向かう準備をしていました。

 高校生の修学旅行と教員採用試験のために、
それまでに3度程上京したことはありました。
 しかし、東京での暮らしには、ただ不安だけで心がいっぱいでした。

 それまで、東京での暮らしなど考えてもみませんでした。
東京は西も東もわかりませんでした。

 北海道の山深い小さな村の小学校の先生を夢見ていた私にとって、
教員の第一歩は、あまりにも違いすぎるものでした。
父が、「自分の生まれ育った土地で先生をやってこそ、
本当の教育ができるのだ。」と、
常々私に聞かせていました。
 それだけに、東京の教壇に立つことに、
私は一種のおびえさえ持っていたのでした。

 母は、そんな私に、わざわざ綿を打ち直して、
新しい布団を一組作ってくれました。
「北海道のような厚くて重い布団は、もういらないから」
と、誰から聞いてきたのか、
それまでの布団より薄くて軽いものを作りました。

 まだ、東京での住まいが決まっていなかった私は、
その布団を赴任先の小学校に送りました。

 東京へ出発する数日前、
私は父に呼ばれました。
 丸いちゃぶ台をはさんで対座した私に父は、
茶封筒に3万円のお金を入れて差し出しました。

 「父さんが渉にわたす最後のお金だ。
後は立派な先生になって、
自分の働いたお金で暮らしていきなさい。」
父はそれだけ言いました。

私は、自分の心の内を一言も言わず、
ただ深々と頭をさげ、茶封筒を受け取りました。

あれは、私にとって、親との別れの儀式だったのかも知れません。
何故か、涙がいつまでもいつまでも止まりませんでした。

 出発の日、姉1人が駅まで見送りに来てくれました。
私は、駅の小さな待合所で、
ゴム長靴から、
姉がお祝いにと買ってくれた真新しい黒い革靴に履き替えました。

 改札口で、姉に「じゃ・・」と精一杯無理をして笑顔を作った私は、
それから1度も振り返らず、一歩一歩確かな足取りで、
プラットホームに向かうつもりでした。

 背中の方から、「いい先生になんなさい。」と、
それこそとてもやさしい姉の声がとんできました。
 目の前の階段がにわかににじんでしまい、
私は歩くことができなくなってしまいました。

 姉に背を向けたまま、
何度も「うん、うん」とうなずいていたことを
忘れることができません。

 毎年おとずれる東京の3月は、
いつも明るくすがすがしい光につつまれています。
 しかし、私の心の中の3月は、いつも昭和46年に戻ってしまうのです。
そして、両親や兄姉の温かさを思い出し、
「ねえ、俺、ちょっとはいい先生になったかな。」
と、そっと北の空に尋ねてしまうのです。

  ◇    ◇    ◇    ◇    ◇



     嘉 右 衛 門 坂 も 雪 化 粧

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