精神世界と心理学・読書の旅

精神世界と心理学を中心とした読書ノート

かくれキリシタンはキリスト教をどう変えたか

2017-02-11 18:37:23 | 日本の文化
◆『切支丹時代―殉教と棄教の歴史 』(遠藤周作)
◆「日本人の宗教意識」(遠藤周作)(『英語で話す「日本の文化」 (講談社バイリンガル・ブックス)』)

日本の文化的・宗教的伝統はどちらかと言えば、父性的な性格よりも母性的な性格が強いのが特徴だ。このテーマについては、「日本文化のユニークさ8項目」のうち、「(2)ユーラシア大陸の父性的な性格の強い文化に対し、縄文時代から現代にいたるまで一貫して母性原理に根ざした社会と文化を存続させてきた」という項目として、様々な観点から論じてきた。

近代化とは、西欧の科学文明の背景にある一神教的な世界観を受け入れ、文化を全体として男性原理的なものに作り替えていくことだともいえる。近代文明を受け入れた国々では、男性原理的なシステムの下に、農耕文明以前の自然崇拝的な文化などはほとんど消え去っている。ところが日本文明だけは、近代化にいち早く成功しながら、その社会・文化の中に縄文以来の太古の層を濃厚に残しているように見える。つまり原初的な母性原理の文明が、現代の社会システムの中に色濃く生残っているのだ。

その事実を、心理学者の河合隼雄は、古事記や日本書紀を読み解きながら『神話と日本人の心〈〈物語と日本人の心〉コレクションIII〉 (岩波現代文庫)』で、古代日本人の心理として語り、また心理療法家の立場から『母性社会日本の病理 (講談社+α文庫)』で、現代日本人の心理として語っている。また土居健郎は、現代日本人の甘えの心理を『「甘え」の構造 [増補普及版]』の中で分析し、日本人論の名著として名高いが、甘えの心理に見られる日本人特有の人間関係のあり方も、きわめて母性原理的な性格を現しているといえよう。


今回取り上げる遠藤周作の本は、いわゆる「かくれキリシタン」のキリスト教信仰の特徴に触れ、日本人の文化的・宗教的伝統の母性的な性格を描き出していて、きわめて興味深い。

作家・遠藤周作は、キリスト教への迫害が絶頂に達した頃のキリスト教に強い興味を示している。宣教師は日本を去り、教会も消え、日本人のごく一部がキリスト教をほそぼそと受け継いでいた時代である。宣教師がいないので、信者はキリスト教を自分たちに納得できるように噛み砕くが、それを是正するものはいない。日本人の宗教意識に合うように自由に変形されていくのだ。それがどのように変形されたのかに、遠藤周作の関心は集中したという。彼らが信じたものもはやキリスト教とは言えず、日本的に変形された彼らのキリスト教になっていた。仏教や神道の要素がごった煮のように混じり合い、キリスト教徒がふつうに信じるGODを本当に信じていたと言えるのか疑わしいと言うのだ。

しかも、彼らが役人の目をかくれていちばん信仰していたのは、GODでもキリストでもなく、実は聖母マリアであった。しかもそのイメージは、キリスト教の聖母マリアというよりも、彼らの母親のイメージが非常に濃かった。宗教画に見る聖母マリアというよりも、野良着を着た日本人のおっかさんのイメージであった。

言うまでもなくヨーロッパにおいてキリスト教は、母親の宗教というより父親の宗教という性格を強くもっていた。教えに外れるものを厳しく叱咤し、裁き、罰するイメージが強いのだ。それが日本では、いつのまにか母親の宗教に変わってしまう。もちろん聖母マリアは、カトリック信仰の中ではきわめて重い意味をもっているが、第一位ではない。その聖母マリアが、「かくれキリシタン」にとっては最重要の信仰の対象となってしまう。しかも日本のおっかさんのイメージに変形されてしまうのだ。父性原理の性格を強くもったキリスト教が、日本ではいつのまにか母性のイメージ中心の信仰に変わってしまう。日本文化の基底に、そうさせてしまう土壌があるからではないのか。

このような変化は、他の宗教での日本人の信仰の場合にも見られるという。たとえば、中国・朝鮮をへて日本に入ってきた仏教の場合も似たような変化が見られる。平安時代から室町時代には、仏教も日本人の歯で噛み砕かれ、次第に母性の宗教に変化していったというのだ。阿弥陀様を拝む日本人のこころには、子供が母親を想うこころの投影があるのではないか。

浄土真宗で「善人なをもて往生を遂ぐ、いわんや悪人をや」といのも、見方によっては悪い子ほど可愛いという母親心理を表していると言えなくもない。ともあれ阿弥陀様には色濃く母親のイメージが漂っている。仏教も日本に流入して日本人に信仰されるうちに、かなり母性的な性格を強くしていったと思われる。

キリスト教にも仏教にも共通に見られる、日本での変化、つまりより母性的な性格のつよい信仰への変化、これは日本人の宗教意識の大きな特徴を表していると言えるだろう。もちろん母親の宗教という面は、キリスト教の中にもある。日本人だけに特有なのではないが、しかし日本の宗教には、この母性的な性格がとくに強く見られるのではないかというのだ。

遠藤周作のこの指摘は、日本人の宗教意識についてのものだが、それは日本の文化や社会の底流に母性原理的なものが色濃くのこっているという捉え方を、一面から強く補強する指摘だろう。

濃密な経験から語られるコミュニケーション実践論

2017-02-11 10:00:51 | 自己啓発
◆『コミュニケーション力 (岩波新書)

他の著者の、コミュニケーションや対話に関する本もいろいろ読んでいるが、書かれている内容や、踏まえられている実践や経験の濃密さは、齋藤氏のこの本が群を抜いている。学生時代の「対話」に費やされた情熱や、大学の教室などでの膨大な実践での経験が凝縮されている。

この中で紹介されたいくつもの方法が、それぞれ独立の本となっている。『偏愛マップ』や『質問力』がその例だ。

現代の若者に欠けている対話やコミュニケーションの力、かつての日本には満ちていたが、現代の教育現場に欠けている身体に深く根差した教育力など、今の日本に欠けている大切なものを取り戻すために、この人の紹介する数々の実践的な方法を、もっと普及させるべきだと思う。

◆新海誠『秒速5センチメートル』と至高体験

2017-02-11 09:10:10 | マンガ・アニメ

◆新海誠『秒速5センチメートル 新海誠 アニメ 英語版(日本語再生可) [DVD] [Import]』(2007年)

新海誠は、『君の名は。』以前から、宮崎駿の次の時代を担うほどの才能をもったアニメ作家、映画監督ともいわれていた。その息をのむような映像の、詩的な美しさとストーリー展開の魅力は、『ほしのこえ』(2002年)や『「雲のむこう、約束の場所」』(2004年)のときから目立っていた。

とくに2002年公開の『ほしのこえ』は、監督・脚本・演出・作画・美術・編集などほとんどを一人で行った約25分のフルデジタルアニメで、自主制作としては信じられないほどクオリティーの高い作品であった。この作品は、第1回新世紀東京国際アニメフェア21公募部門で優秀賞を受賞し、実行委員会委員長の石原慎太郎都知事から「この知られざる才能は、世界に届く存在だ 」と絶賛を浴びた。

『秒速5センチメートル』は、前二作のようなSF的な要素は消えたが、映像はさらに美しく、物語は詩情にあふれている。

この作品の本格的な評としては、前田有一の超映画批評でのレビューをお勧めしたい。私は、前田有一や他のさまざまなレビューが取り上げていない視点からこのアニメを語ってみたい。

作品は、ある少女を思い続けた男の十数年間を三話構成で綴っている。第一話「桜花抄」は主人公の遠野貴樹と同級生・明里の小学生時代の出会いから始まる。 転校を繰り返した共通の経験を持つ二人は、互いに思いを寄せ合うようになる。明里が、東京から栃木の中学校に進学してからも文通を続けていたが、その後、鹿児島への転校が決まった貴樹は最後に明里に会うため、栃木県の小山の先まで行く決心をする。しかし彼の乗るJR宇都宮線は記録的な豪雪に見舞われ、待ち合わせの駅に着いたのはすでに深夜だった。 明里はその駅の待合室で一人待っていた。

二人は雪の中を外へ出る。あたりは静寂につつまれ誰もいない。大きな樹の下に二人だけがいる。その時の貴樹のモノローグ。

「その瞬間、永遠とか心とか魂とかいうものがどこにあるのか分かったような気がした。13年間生きてきたことのすべてを分かち合えたように僕は思い、それから次の瞬間たまらなく悲しくなった。明里(あかり)のそのぬくもりを、その魂をどのように扱えばいいのか、それが僕には分からなかったからだ。僕たちはこの先もずっといっしょにいることは出来ないとはっきり分かったからだ。‥‥‥でも僕をとらえたその不安はやがてゆるやかに溶けていき、あとは明里のゆるやかくちびるだけが残っていた。」

この時、貴樹は一種の「至高体験」をしたのだ。「永遠とか心とか魂とかいうものがどこにあるのか分かったような気がした」という言葉がそれを表している。そしてこの「至高体験」に、彼はその後ずっとこだわり続けることになる。(「至高体験」が何かについては、次のサイトを参照されたい。「覚醒・至高体験の事例集」)

第二話は「コスモナウト」。遠野貴樹は種子島の中学に転校し、その地の高校の三年生になっていた。貴樹をひたすら想い続ける同級生・澄田花苗は、貴樹が卒業後は東京の大学へ行くと知り、自分の想いを貴樹に告げようと決心する。それは、いつも二人で帰る畑中の道でのことであった。彼女が逡巡していたその時、種子島宇宙センターからロケットが発射され、空を割り裂くような轟音と軌跡を残して宇宙に旅立っていく。二人は、ただ黙ってそれを見つめる。

「‥‥ただ闇雲にそれに手を伸ばして、あんな大きな塊を打ち上げて、気の遠くなるくらい向こうにある何かを見つめて。‥‥‥遠野君は他の人と違って見える理由が少しわかったきがした。そして同時に遠野君は私を見てなんていないんだということに私は気づいた‥‥‥。」

ロケットの軌跡を見ながら、同時に花苗は自分の失恋に気づく。遠野君は、気の遠くなるくらい向こうを見つめていて、自分なんか見ていない。それに否応もなく気づいてしまった。では、貴樹が見つめていた宇宙のような遠くとはなんだったのだろうか。それは、一度垣間見た「永遠とか心とか魂とかいうもの」の在りかではなかったのか。「至高体験」ではなかったのか。

ロケットの噴射が描く、大空を引き裂くような美しい軌跡を二人は黙って見続ける。それは、二人の世界の分離を暗示するかのように残酷なほどに美しく空に描きこまれていく。

三話は映画のタイトルとなった「秒速5センチメートル」。貴樹は、日々仕事に追われ、疲れ果てていく。3年間付き合っていた女性からも、彼の心が彼女に向いていないことを見透かされてしまう。

「この数年間、とにかく前に進みたくて、届かないものに手を触れたくて、それが具体的に何を指すのかも、ほとんど脅迫的ともいえるようなその思いがどこから湧いてくるのかも分からずに僕はただ働きつづけ、気づけば日々弾力を失っていく心がひたすら辛かった。」

「貴樹の心は今もあの中学生の雪の夜以来ずっと、彼にとって唯一の女性を追い掛け続けていたのだった…」(wikipedia)というのが、一般的な解釈だろう。しかし、「届かないものに手を触れたくて」、しかもそれが何なのかも分からず、その思いがどこから湧いてくるのかも分からないというのはどういうことだろうか。それが明里だったなら明里だと、彼にもはっきり分かったはずだ。彼が求めていたのは、明里というよりも、明里との間で一度限り体験した「永遠とか心とか魂とかいうもの」の在りかの秘密だったのではないか。それはあまりに幼き日に体験した魂の高みだったからこそ、失われ、忘れ去られて彼を脅迫的に突き上げる得体のしれない思いにまでなっていたのではないか。

私には、遠野貴樹という主人公の名前も、初恋の少女の明里という名前も、雪の夜の「至高体験」を暗示しているように見える。そして、遠くの高い樹(魂の高み)を見つめている遠野君は、私のことなんか少しも見ていないと、花苗は気づいた。空の高みを目指すロケットが打ち上げられるその光景を見ながら。