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旧東海道ランニング「東海道走膝痛シ」・・・戸塚~平塚・その3(ボクシングの町・茅ヶ崎)

2012年12月04日 | 東海道走膝痛シ(旧東海道ランニング)


古くて立派な家がこのあたり(藤沢から値が茅ヶ崎)は沢山ありますね。
豊かな土地であることがわかります。
(ただ、写真が目で見たように、建物が暗くなってしまい、うまくとれないのが残念!どうしたらいいのか?)


かわいい煙草屋さん。(四ッ谷あたり)
東京じゃ、煙草屋はほとんど見かけません。

 
真新しいお寺にみえたのですが、あとで調べたら千手観音で有名な歴史ある真言宗のお寺らしい。
だが、新しいお寺とはなかなか入りにくいものです。


牡丹餅茶屋跡
このあたりの東海道は、砂丘上を通っていたらしいです。
そして牡丹餅茶屋は一番高く、登り切って一休みといった感じのところだったらしく、遠く海に浮かぶえぼし岩も眺めることができたとのこと。
ぼたもち茶屋は特に「粟ぼたもち」が評判だったことからそう呼ばれるようになったという。
ホッとして、癒された場所だったと思います。


茅ヶ崎高校あたりです。
この辺は松並木があって、明るい感じ。
コンビニでトイレ休憩しました。
今回はコンビニに困ることはありません。
その代り、大きな幅広の一級道路脇を走るので排ガスに嫌気がさします。
前回の、『ここが東海道?』というような細い道の方がユックリ走る人間には優しいです。


哀愁ただよう相模線です。


ここで東海道は地上を歩く事が出来なくなります。
茅ヶ崎駅前交差点を地下にもぐって通過します。


あがったら、すぐにピストン堀口ボクシングジムがありました。

-------------ウィキペディアより抜粋-------------
ピストン堀口


略歴

警察署長の子として栃木県真岡市で生まれる。旧制真岡中学時代は柔道部の主将を務め、県下で有名な強豪選手であった。真岡中学の先輩で「日本ボクシングの父」と称される渡辺勇次郎が弟子達を率いて真岡市でボクシングの模範試合を行った際、堀口は腕試しのつもりで飛び入り参加しプロボクサー相手に2ラウンドを戦い、渡辺に度胸と才能を評価されて1932年に上京し、日本拳闘倶楽部へ入門した。自己流でトレーニングをして、上京からわずか半月後に初試合を行いKO勝ちを収める。翌1933年にプロデビュー。その後、かつての名選手岡本不二の指導を受け、デビューから5引き分けを挟んで47連勝という驚異的な記録を残す。その間、B・D・グスマンを破り東洋フェザー級チャンピオンまで上りつめるなど、世界クラスの実力を持っていたが、太平洋戦争の影響もあり世界王座を獲得する機会には恵まれなかった。特に、1941年5月28日に両国国技館で行われた笹崎僙戦は日本ボクシング史上「世紀の一戦」と呼ばれるほど有名で、この試合に勝利して以降は「剣聖」宮本武蔵になぞらえて「拳聖」と称されるようになった。

ピストン戦法

対戦相手をロープに追い詰めての休まぬ左右の連打を得意とし、「ピストン戦法」と呼ばれた。その無類のスタミナは、10分間連打でミット打ちを続けてなお息切れ一つしなかったという。堀口の連打が始まると「わっしょい、わっしょい」の大合唱が起こる程の人気であった。

ただし、1936年にハワイ巡業を行った際、日本では熱狂的に受け入れられた捨て身のピストン戦法は当地の新聞に「ボクシングと呼べるものではない」と酷評されている。この頃、既にアメリカのボクシング界ではフットワークやディフェンスの技術が重要視され、攻防一体のスタイルが主流となっており、ディフェンスを軽視した堀口のファイトスタイルは時代遅れのものであった。この時の体験が契機となり剣道や空手など武道を通じて精神修養に励み(師匠は小西康裕)、プロボクサーとしてではなく拳闘家として精神力と肉体の練磨に一層努めるようになった。

引退後

戦後はボクシングの他探偵業もしていたが、現役引退から半年後の1950年10月24日午前0時過ぎ、東海道線の線路上を平塚方面から茅ヶ崎方面へ歩いている処を列車に撥ねられて轢死。泥酔して自宅に近い下車駅(茅ヶ崎)を寝過ごしてしまい、線路沿いを歩いて帰る途中だったといわれている。

1937年にピストン堀口が茅ヶ崎市幸町に練習場として開いていたジムを、長男・昌信が引き継いで「ピストン堀口道場」として同市茅ヶ崎1丁目に開設し、現在は孫にあたる昌彰が会長の座を受け継いでいる。3代続けての早大ボクシング部である。[2]。道場にはピストン堀口の書「拳闘こそ我が命」の額が掲げられ、好んだ緑色がジムのマット色になっている。

墓は茅ヶ崎市内の海前寺にあり、墓碑銘に「拳闘こそ我が命」と刻まれている。

エピソード

・合気道開祖の植芝盛平の道場へ行き、植芝に対して挑みストレートを打ったが、その手を鷲掴みにして投げられたことがある。(塩田剛三『合気道修行』より)
・梶原一騎は若いころ、喧嘩や格闘技にのめり込んでおり、憧れの存在がピストン堀口であった。
・彼の死に関しては、石原慎太郎が著書「わが人生の時の人々」のなかで、かつて自らがボクシング観戦、関係者との交際にのめりこんでいた時期に人から聞いた話として、酒を呑みすぎて最終電車を逃し、やむなく線路上を歩いて帰宅途中だったピストンが、相模川の鉄橋近くで臨時の貨物列車が走ってくるのを目にし、列車が鉄橋に差し掛かるよりも先に、自分が鉄橋を走り抜けることが出来ると無謀にも判断し、線路上を列車に向かって走り始めたものの、鉄橋を渡りきる前に列車と衝突してしまい、あえなく落命したのだ、と語っている。

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茅ヶ崎高校そばの海前寺にお墓があるそうです。→ピストン堀口を知っていますか 

この漫画読みました。ハィ!

ピストン堀口氏の映像

つい最近まで私の会社は練馬にありましたが、西武線のガードにやはりボクシングジムがあり、若い人たちが練習をしていました。

ゴングが鳴ると練習し、ゴングがなると休む、そんな練習していました。

ジムが狭いからでしょうか、ガードの下に出てきて、シャドーボクシングしてました。
(トレーナーが気合いの声をかけてましたね。)
その脇を仕事帰りの通勤客が通ったりします。

それでも、このジムでは有名なチャンピオンがいたみたいです。

とても狭く、うす暗いジムの中で、懸命に汗を流して練習している姿はけっして傍目からはカッコイイものではなく、華やかさもなく、とても地味なスポーツだなぁと思っていました。

それに反して、あの試合の華やかさが対照的・・・。

不思議なスポーツ・明日のジョーのスポーツです。

明日のジョーの人形がある中野ふれあいロードにある、チェーン系のステーキ専門店(ステーキ亭

ランニングは昔は地味でしたが、今ではランニングスタイルをばっちり決めて、カッコ良く練習してますよね。

(つづく)



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