平等寺からは次なる特別公開の長講堂へ向けて徒歩で移動。
その途中で偶然見かけて立ち寄った寺院をちょっとばかしご紹介
まずは上徳寺。

通り過ぎながら軽く見た看板に慌てて足を止めました
家康の側室の阿茶さまのお墓がある
これはお墓参りせねば
だったのです
こちらのお寺、世継地蔵として有名なんだそう。
「京のよつぎさん」なんて呼ばれているらしい。

これが地蔵堂。安産祈願やら子宝祈願やら、まぁそういった願掛けがこれでもかってくらいされていました。
絵馬だけじゃなく涎掛けなんかも奉納されていたしね。

地蔵堂の周囲にはこういったやたらと愛らしい地蔵様たちがいらっしゃいました
行った時、ちょうどカップルさんがこのお地蔵さんにお参りしてましたよ。初々しいなぁ
本堂の裏が墓地になります。
そして本当に本堂の真裏にあたるところに阿茶の局のお墓がありました。

阿茶の局は家康の戦場にまでくっついていってしまう男前な方(笑)
家康との間に子はありませんが(陣中にて流産してしまっています)、えらい才知に富んだ方だったようで、家康にもかなり信頼されていて、秀忠の養育もまかされていました。
大阪の陣では豊臣方との和睦交渉までしていますからね
家康隠居の際にも駿府に連れて行ったたった2人側室のうちの一人。
家康死後も落飾を許されず、秀忠から信頼され、和子の入内の際の守役なども務めています。この時の功績によって後水尾天王より従一位を賜ったりしているツワモノ。
秀忠が亡くなると、やっと?仏門にくだり雲光院と号し、京都にて亡くなります。
83歳っていうんだから長生きだ…
そんなお方ですから
見習うとこ満載なかっこいい女性ですからね~
お墓参り好きとしては、たまたまと言えどここにたどり着けてお参りできたのは嬉しかったですわ
そして再び進むこと次に見えてきたのは蓮光寺。
これまた…うん?長宗我部盛親の墓所???
もちろん立ち寄り
しかしこちら、さらに気になるものが
大河『義経』で紹介された駒止地蔵さまがいらっしゃった

こちら、弘法大師の作と伝えられ、元は六条河原の刑場に祀られていたのだけれど、鴨川の氾濫で埋もれてしまっていたのだとか。
清盛が馬に乗っていたところ、急に馬が立ち止まって動かなくなってしまい、そのあたりを掘ったらこの地蔵様が出てきたと。
それ以後『駒止地蔵尊』として祀られるようになったんだとか。
あと、盗賊から信者を身代わりになって護った際、首を斬られたとの伝説もあり『首切り地蔵』とも呼ばれています。
この地蔵様、お顔立ちがとっても独特で、ちょっと迫力がある感じしました
素朴なんだけどね~逆にそれでなのかなぁ?どっしり感が妙にリアル…
罪人の処刑を見ていた…そう思うとより“重み”を増します
御参りをすませた後は墓所へ。
墓地の一番奥に、長宗我部盛親の墓所はありました。

長宗我部盛親は四国の覇者として有名な長宗我部元親の息子。4男なんだけど、元親の強烈なプッシュによって家督を継ぎます。関ヶ原では西軍につきますが参戦できずして敗退。後改易。これにより長宗我部家は滅亡します。
その後、京都にて謹慎させられるも脱出、大阪の陣で豊臣方につき数々武功をおさめますが、最後は六条河原で斬首、三条河原にてその首は晒されました。
その首級がここに葬られているのだそうです。
説明文がもうボロボロになっていてちょっぴり可哀相だった
まぁ門の看板はちゃんとしてるからいいのかな?
お墓参りをさせていただき、今度こそいざ長講堂へ
続きは次回
その途中で偶然見かけて立ち寄った寺院をちょっとばかしご紹介

まずは上徳寺。

通り過ぎながら軽く見た看板に慌てて足を止めました

家康の側室の阿茶さまのお墓がある

これはお墓参りせねば

だったのです

こちらのお寺、世継地蔵として有名なんだそう。
「京のよつぎさん」なんて呼ばれているらしい。

これが地蔵堂。安産祈願やら子宝祈願やら、まぁそういった願掛けがこれでもかってくらいされていました。
絵馬だけじゃなく涎掛けなんかも奉納されていたしね。

地蔵堂の周囲にはこういったやたらと愛らしい地蔵様たちがいらっしゃいました

行った時、ちょうどカップルさんがこのお地蔵さんにお参りしてましたよ。初々しいなぁ

本堂の裏が墓地になります。
そして本当に本堂の真裏にあたるところに阿茶の局のお墓がありました。

阿茶の局は家康の戦場にまでくっついていってしまう男前な方(笑)
家康との間に子はありませんが(陣中にて流産してしまっています)、えらい才知に富んだ方だったようで、家康にもかなり信頼されていて、秀忠の養育もまかされていました。
大阪の陣では豊臣方との和睦交渉までしていますからね

家康隠居の際にも駿府に連れて行ったたった2人側室のうちの一人。
家康死後も落飾を許されず、秀忠から信頼され、和子の入内の際の守役なども務めています。この時の功績によって後水尾天王より従一位を賜ったりしているツワモノ。
秀忠が亡くなると、やっと?仏門にくだり雲光院と号し、京都にて亡くなります。
83歳っていうんだから長生きだ…
そんなお方ですから


お墓参り好きとしては、たまたまと言えどここにたどり着けてお参りできたのは嬉しかったですわ

そして再び進むこと次に見えてきたのは蓮光寺。
これまた…うん?長宗我部盛親の墓所???
もちろん立ち寄り

しかしこちら、さらに気になるものが

大河『義経』で紹介された駒止地蔵さまがいらっしゃった



こちら、弘法大師の作と伝えられ、元は六条河原の刑場に祀られていたのだけれど、鴨川の氾濫で埋もれてしまっていたのだとか。
清盛が馬に乗っていたところ、急に馬が立ち止まって動かなくなってしまい、そのあたりを掘ったらこの地蔵様が出てきたと。
それ以後『駒止地蔵尊』として祀られるようになったんだとか。
あと、盗賊から信者を身代わりになって護った際、首を斬られたとの伝説もあり『首切り地蔵』とも呼ばれています。
この地蔵様、お顔立ちがとっても独特で、ちょっと迫力がある感じしました

素朴なんだけどね~逆にそれでなのかなぁ?どっしり感が妙にリアル…
罪人の処刑を見ていた…そう思うとより“重み”を増します

御参りをすませた後は墓所へ。
墓地の一番奥に、長宗我部盛親の墓所はありました。

長宗我部盛親は四国の覇者として有名な長宗我部元親の息子。4男なんだけど、元親の強烈なプッシュによって家督を継ぎます。関ヶ原では西軍につきますが参戦できずして敗退。後改易。これにより長宗我部家は滅亡します。
その後、京都にて謹慎させられるも脱出、大阪の陣で豊臣方につき数々武功をおさめますが、最後は六条河原で斬首、三条河原にてその首は晒されました。
その首級がここに葬られているのだそうです。
説明文がもうボロボロになっていてちょっぴり可哀相だった

まぁ門の看板はちゃんとしてるからいいのかな?

お墓参りをさせていただき、今度こそいざ長講堂へ

