当方見聞記

旅と舞台・ライブ話を気ままに書いてます

白い彼岸花

2012年09月30日 | 日記
山口ネタの最中ですが、ちょっと最新ネタ。

白い彼岸花見てきました
伊豆の国市の北條寺の白い彼岸花。







初めて見たけど、赤とはイメージ全然違いますね。
赤のインパクトってすごいけど、白ってなんか可憐な感じ。
毒をもつ花だけど、彼岸花ってやっぱり綺麗だよなぁ…

ちなみに北條寺は名前にもなっていますが、北条家とゆかりありまくりのお寺。
北條義時のお墓があります。まぁここは分骨らしいですが…


右が義時のお墓、左は後妻佐伯氏娘のお墓です(看板より)。

この北條寺付近には願成就院や成福寺など、北条一族のお墓がちょこちょこあります。
興味がある方は韮山へ行って見てくださいませ。

萩観光の続き

2012年09月30日 | 日記
萩観光の続き。文化施設1日券では入れない施設のお話。

まずは高杉晋作旧宅。
萩城城下町の中にありますが、ここは別料金なんでご注意を

ここで高杉さんは生まれました。


初湯の井戸。




↑庭の隅にあったせいか、看板まで建っているのに意外と見逃されていた感じが…

ここは高杉晋作の父の小忠太の宅になります。
禄二百石、大組(八組Or馬廻組)の、藩主直属の家臣なので、菊屋横丁にあります。さすが

旧宅のすぐそばの広場には高杉さんの銅像もありました。



そして萩と言ったら…な松陰神社へ。

まず本殿をお参り。
そして後ろを振り返ると、吉田松陰旧宅。
この松陰神社は吉田家の住居跡に出来た神社なんです。

建物の裏側になりますが、ここの左側の部屋に松陰は幽閉されていました。

黒船で密航しようとした罪で実家の小部屋に幽閉されることになったんです
幽閉されているので家からは出れない。暇つぶし?的に始めた、実家での寺子屋。それが松下村塾。

これが旧宅の正面。
はじめの頃はこちらで授業していたんですが、あまりに生徒が増えてここではできない!ってことで、ほぼ向かいに塾専用の建物を建てました。
そんなわけでこの看板。



こちらが松下村塾跡になります。
講義をしていたお部屋。

奥に松陰先生の像がありました
そして花月楼。これは塾生でもある品川弥二郎が自邸に保存していた7代藩主毛利重就が建てた茶室を松陰神社に移築したもの。




ちなみに。
松陰神社には宝物館の至誠館もあります。
塾がどんなだったのかや松陰や塾生たちの資料が多数あるので幕末ファンにはかなりツボですよ

萩市文化財施設巡り

2012年09月23日 | 日記
萩市文化財施設1日券というお得な券で旧宅巡り。
これ、対象施設が9もあるのに300円。1つ100円なので、3つ以上回らないと得じゃないですが、普通3以上行くから絶対お得
時間の都合上自分は6つしか行けませんでしたが十分元は取れてます

まずは木戸孝允(桂小五郎)旧宅。

木戸は萩藩医であった和田昌景の長男としてここに生まれています。桂家の養子となりますが、養父母死亡により実家で育てられました。
藩医の家だけはあって、なかなかご立派な家です。

奥に見える『今日』の掛け軸は、桂さんの幼年時代の手習い。

桂さん誕生の間。

そのまま隣の青木周弼旧宅へ。
写真撮ってなかったんですが、こちらもまた医者の家ならではの立派さ。
青木周弼は、幕末に蘭学医として名をあげた人物で、毛利敬親によって長崎より萩藩に召し抱えられ、医学館の教官に任命された方。
そんな周弼に学びたいと全国から生徒が集まってきたため、この家を新築したんだそうです。

旧久保田家住宅。
菊屋家住宅の道を挟んで目の前にあります。
明治30年代まで「あらたま酒店」という造り酒屋を営業されていました。






そして豪商たちが住む区画からはちょっと離れて、次は桂太郎旧宅へ。
桂内閣ですよ。



家は今までの家に比べると小ぶりで質素。
住むのに必要な最低限の広さでいいと言う考えだったからだそうです。

庭には桂太郎の銅像も建ってました。


そして旧湯川家屋敷。
桂太郎旧宅のすぐ横です。

台所が藍場川に直接繋がっています。

だから川から鯉も入ってくる(笑)





庭の池も藍場川から水を引き込んでいます。これがそのまま台所に流れ込んで、川に戻っていく。
優雅な造りですよね
…しかし実際に生活ってなると蚊との戦いなんだろうな…

ラストに松陰神社の裏、伊東博文旧宅・別邸。
別邸は東京にあった伊藤の家を移築したものになります。






旧宅は写真撮ってなかった
本当に小さな茅葺屋根の建物です。別邸の横にひっそり建っています。こちらは外見れるだけなんで無料ですよ。


萩城下町

2012年09月19日 | 日記
まずは萩城と共通券の旧厚狭毛利家萩屋敷長屋へ。
二の丸南門から出れば目の前にあります。

こちら重要文化財。明治維新後唯一残った建物です

そして天樹院へ。毛利輝元公の墓所です。



こちら、輝元公の火葬場跡
火葬場まで残っているなんて、輝元さまってば偉大すぎるわ

73歳にて死去した輝元はここで荼毘され、埋葬されました。
なんでここに?って、ここは、輝元が隠居後に屋敷をかまえて住んでいた場所だから。
輝元が亡くなり、屋敷を取り壊してここに葬ったとのこと。
隠居後も絶大な権力を持っていた輝元は萩城のお膝元のこの場所で、萩藩の相談役として大活躍だったんですね~

萩藩の御用商人の菊屋家の住まいであった重要文化財の菊屋家住宅へ。

さすがは毛利輝元の財政も救った豪商菊屋規模が違うわ
ちなみに現在の萩城城下町と言われている区画の1/6は菊屋家住宅です
中もお見事。庭も素晴らしい

庭も眺めながらゆったりくつろげます

↑お店なので、ここがお店だった部分。
そして本物の古時計。↓

こちら、なんと伊藤博文のアメリカ土産
今でももちろん動いています。頭の中はもちろん「おおきなのっぽの古時計」(笑)
タイミングよく12時にここにいたんですが、鐘もしっかり鳴りましたよ。早めの鐘でボーンボーンが12回

そして円政寺。
高杉新作・伊藤博文の子供時代の勉学所のお寺です。

看板にも書いてありますが、金毘羅社でもあるんです、ここ。ようは神仏習合のお寺

元は大内氏の祈願所で山口市円政寺町にあったお寺。毛利氏が萩へ築城の際にこちらに移転してきました。
維新後の神仏分離令をなんで免れたって、宝鏡寺宮の御真筆があったおかげらしい。
いくら昔のことだろうが天皇家がここは金毘羅さんだよって書いてあるもん残っていたら、神仏分離を強制で命令できないよね~天皇家は絶対。それが明治政府の方々ですし
ちなみにこのお話はこちらのお寺の方に伺いました気さくに話しかけてきてくれた上にものすごく色々教えてくれて面白かったです

県下最大の石灯篭。



伊藤さんが鼻を撫でて遊んでいたっていう神馬の木馬。
御利益求めてお客が皆撫でるから、おかげで鼻だけピカピカ

金毘羅社。十二支の彫刻がされています。上の方にもあるので、干支によっては探しずらい

ここには大きな赤天狗のお面が掲げられています。

高杉さんが幼少期に家人に何度もこれを見に連れてこられて、物おじしない子になるよう躾けられたんだとか。
そして中には、特別公開で、金毘羅大権現の銅鏡が展示されていました。
戦時中に行方不明になり、平成十八年にオークションにて発見、買い戻された品です。
ちなみにこのオークションの出品本も見せていただきましたが、見つかったのは本当に奇跡だったようで。
長州萩新堀金毘羅大権現奉献の銘文がありこれが発見の決め手だったらしいです。

萩城

2012年09月15日 | 日記
東萩駅下車、駅前でレンタサイクル借りてレッツゴー

ちなみに。
レンタサイクル借りる方は、荷物は預かってくれる店が多いのでコインロッカー入れる前にまずは聞いてみましょう。
ここも無料で預かってくれますよ

まずは萩城へ
だって萩と言えばまずここに来たかったんだもの

本丸門より萩城入城

萩城は毛利輝元が築城したお城。
廃藩置県の折の廃城令で天守などは破却されてしまったので、石垣のみが現在残っています。


入り口の受付横にあった看板。
まぁ萩だしね~松陰先生と高杉さんだよね~


雁木も素晴らしいここは多聞櫓跡になります。
なんかここの規模だけで、この城のでかさがなんとなく伝わってきた…

いざ天守閣跡へ。





洗練さを感じる堀の美しさにテンションアップ
石垣しか残っていないので、当時はこんなに山や堀が綺麗に見えたかはわかりませんが、天守から城下町を見渡すのと同じ気分で堀と指月山見たと思うと…なんて贅沢な景色…ただの妄想萌え(笑)
でもこの堀の角々っぷり、マジでいいわ~

天守台を降りて、天守台の石垣を堪能するためにぐるっと堀廻り回ってみたり。
この天守台の石垣の勾配、とても美しい



草がだいぶ元気良く生えていて石垣の負担が心配になりました

花江茶室。
藩主別邸にあった茶室を明治20年頃に移築したものです。



13代藩主毛利敬親はここで家臣と密議をしていたんだとか。

志都岐山神社へ。城内にある神社です。



灯篭の中で猫が涼んでいた(笑)


東園跡。

二の丸の庭園にあたります。

ラストに毛利輝元公の銅像。



本当は指月山の頂上にある詰丸まで頑張りたかったのですが、夏の自然の驚異にびびってやめました
だって登山道入り口からこんな状況…

この山、自然を守るため“あえて”手を加えていないんだそうです。
登山はいいけど根っことか踏んで自然を痛めないでねの看板あり。…夏にそんな自然全開の場所入るの無理だって

下関のおまけ

2012年09月09日 | 日記
下関では他にも回ったところがあります。

まずは亀山八幡宮。
唐戸港と赤間神宮の間にあります。

この大鳥居は御影石の鳥居としては日本一らしい。
真ん中の亀山宮と書かれた額はなんと約三畳。あとで聞いて、「そんなでかかった?!」って驚いた

ここの売りは『日本一のふくの像』

神社に入らずとも、この子は道から見えます。
いかにも下関って感じですよね~

その横には亀神、そしてお亀茶屋跡の看板が。

このお亀茶屋、初代内閣の伊藤博文が奥さんである木田梅子と知り合った場所。
賊に追われた伊藤を梅子さんが助けたんだそうな。

ここ、なんだか細かく色んなものがありまして…
床屋発祥の地だったり、林芙美子や金子みすゞの碑があったり、秀吉が参拝記念に植えた蘇鉄があったり、子持ちの狛犬がいたり、砲台跡もあったり…ぶっちゃけ外から見た第一インスピレーションは『なんだか流行りにのっちゃったようなチャラさを感じるんだよなぁ』だったんですけど、境内の案内見て『あれ?マジですごいとこ?』なりました


そして日和山公園。
唐戸から下関まで歩く途中。下関の海峡ゆめタワーの近くになります。
大通りの道から突如伸びる住宅に囲まれた階段…
日常的にこの階段使って生活してる人たちを感心しながら(あんな階段毎日なんて無理)、登って上って、登りまくって、や~~~っと公園到着
なんでそこまでして行こうと思ったって、高杉さんの銅像見る為ですよ

ご立派なお姿
景色だけは、夏場のせいか周りの木や雑草が茂りまくっていまして…。
“港が見える丘公園”のキャッチに反した光景になっちゃってました

門司の港町

2012年09月06日 | 日記
巌流島から門司港へ。福岡県突入~

1日乗り放題のフェリー券があるので、それを使えばお気軽に唐戸・巌流島・門司が回れます

門司についたら、まずは港の前にある門司港駅へ。

この駅舎はなんと全国初で重要文化財に指定された駅舎なんです
ルネッサンス様式の木造建築で、大正3年に作られました。



電車乗るわけではないので外から
老朽化が進んだため、今年の9月末から約6年かかる修復工事に入るのだそうです。
この姿、見納めできて良かった~

そして門司港駅ななめ前、旧門司三井倶楽部へ。

大正10年に作られた、三井物産の社交倶楽部で、こちらも重要文化財。
こちら、2階の見学は有料。と言っても100円。なんて優しい金額なんだ
2階が有料な理由。それはアインシュタインの宿泊した部屋なんかを見れるから。



貴賓扱いだったんだね~と思える豪華でオシャレな部屋でした
浴室も、めっさ広かったし。これが当時のスイートルームってやつだったんだねぇと思いましたよ

門司出身の作家・林芙美子の部屋を再現した部屋もありました。

置いてあるものは、実際本人が使っていた品物です。
林芙美子は、森光子さんで有名な『放浪記』の作者。
お恥ずかしながら、実はここで初めて放浪記の作者がこの人だったって知りました…言われてみれば、森みつさんがこの人の名前言ってるの聞いた記憶あるって思ったけど

旧門司三井倶楽部の裏側に建つ旧大阪商船。


親水広場前の売店のところにあった像。

門司の有名人??

親水広場を過ぎて、まず目に入るのは国際友好図書館。

そして目の前の旧門司税関へ。

船模型の展示会が行われていました。
展示会眺めて上の階へ。ここ、展望台にもなっているんです。

窓から眺める港の景色。
天気が良ければね~もっと唐戸の方まで見えたんだろうけど

ラストに甲宗八幡宮へ。

こちらには、平知盛のお墓がある神社です。

知盛は、壇ノ浦にも銅像が建てられていましたが、壇ノ浦合戦の最後の際には平家の棟梁として、一族の入水を見届けてから自らも伊賀(服部)家長(伊賀忍者の祖らしい)と入水したと伝えられています。

和布刈神社も行きたかったけど、さすがに夕方ともなってきたんでやめときました
ちなみに和布刈神社は、平家一門が壇ノ浦合戦の際にに戦勝祈願した神社です。
チャリだったら行けたけどさ、歩きだったんだよねぇ…まぁいいけどさ

源平ゆかりの神社in下関

2012年09月06日 | 日記
行った時間は前後しまくりますが、下関にある源平ゆかりの神社へ。

まずは下関駅から数分の場所にある大歳神社。

町の中にいきなりやる気な階段のお目見えです

こちらの神社は、義経が壇ノ浦合戦の前に戦勝祈願をした富士浅間さんの大歳御祖大伸を祀っています。
義経は有明山に富士の小松を植え、そこで祈念をした弓矢を開戦の矢文として平家軍に打ち込んだと伝えられています。
元々富士浅間さんの大歳神は武運の守護神。
義経の祈願が成就されて源氏が勝利したこともあってか、さらに武運長久の神としてあがめられ、1枚目の写真の大鳥居は攘夷必勝を祈念して白石正一郎により奉納されたものだったりもします。
ここ、おみくじにちびっこ絵馬付のやつがあって、そのちびっこ絵馬が奉納されている様はなんだか可愛かったです(笑)


次は唐戸港と関門橋の間にある赤間神宮。
ここは平家、壇ノ浦にて亡くなった安徳天皇を祀っている神社になります。


入り口の水天門。
二位尼(平時子)が安徳天皇に答えたといわれる「(海の)波の下にも都はあります」。
この言葉から造られた竜宮城をモチーフにした竜宮造りの門なんです。ちょっと中華風な感じですよね



水天供養塔。安徳天皇たちを供養するために作られた塔です。


こちらには平家一門の墓、七盛塚もあります。

ここには耳なし芳一を祀った芳一堂があります。

芳一は赤間ケ関の阿弥陀寺(今の赤間神宮)に住む盲目の琵琶法師で、壇ノ浦の合戦をあまりにも上手に奏でることから平家の亡霊に憑りつかれ、和尚によりその身を守るために全身にお経を書かれるも、耳だけお経を書きもれをしたことにより、芳一を迎えに来た平家の亡霊に耳だけもぎ取られてしまったという伝説のお方。
阿弥陀寺の由縁でここに木造を祀ってあるそうです。

合戦地巡り?

2012年09月03日 | 日記
源平の壇ノ浦の戦いの地に寄ってきました。

関門橋の人道入口の目の前のみもすそ公園の中に壇之浦古戦場址があります。
ここには有名な像が…





壇ノ浦合戦の際の源義経・平知盛の像が立ってます。
義経の八艘飛びの一コマ。
近年造られたものなので、大河『義経』の出演者達の手形もありました。

この公園内には長州砲のレプリカも置かれています。



ここは下関戦争(長州藩が関門海峡を通る外国船に突如砲撃、それにより起きた長州vs諸外国の戦争)の砲台跡地でもあるので、ここにレプリカが設置されています。
2枚目の写真は、フランスにある“本物”の長州砲の精巧なレプリカ。これは模様も施されていて、なんとなく当時の美学を感じさせられます

その後、唐戸港から巌流島へ。

巌流島は宮本武蔵と佐々木小次郎の決闘の地。
下関と門司の間、関門海峡にある無人の小島で、唐戸からフェリーで行くことができます。
ちなみに今年はなんと巌流島の戦いから400年の記念の年だそうです。


ここが決戦の地といわれていう場所。
小舟できたってことで、碑が小舟型していました

そしてそれより島の奥…といってもここから2~3分の丘の上、そこには2人の決闘シーン再現の銅像が。





しかしこの決闘、武蔵が道場破りノリで小次郎に果たし状送りつけて決闘することになったのに、イラつかせる為に約束より大幅な遅刻をして、そのあげくいきなり襲いかかる。しかもいくら木刀と言えど二刀流で…。
そして血を出して倒れた小次郎を見て、そのまま放置で慌てて小舟で島を去る…て、武蔵かっこいいですか?
さらには小次郎がその後しばらくして蘇生したら、連れて来るの禁止にしていたのに勝手についてきちゃっていた武蔵の弟子が、慌てて小次郎を打ち殺す…
時代的にも勝てばいいんで手段が卑怯とは言えないけど、これが本当だったら…無敵の武蔵って言われても、なんだか微妙に思えちゃうんだけどねぇ

最後に佐々木巌流の碑。

小次郎のお墓ってわけではありませんが、お墓替わりに御参りする人が多いそうです。