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「多摩のよこやま」東京都府中市の南、現在の多摩市あたりに起伏少なくして横に長く連なる山(丘陵地帯)
『万葉集・巻20-4417』 「赤駒(あかごま)を 山野(やまの)に放(はが)し 捕りかにて 多摩の横山 徒歩(かし)ゆか遣(や)らむ」。
「右の一首、豊嶋郡の上丁(じょうちょう)椋椅部荒虫(くらはしべのあらむし)が妻(め)の宇遅部黒女(うじべのくろめ)」
訳:赤駒を山野に放し飼いにして捕えかね、多摩の横山を歩いて行かせることになるのか。
(歌碑は一本杉公園にありました)
すっかり葉桜となった、東京多摩市の丘陵・多摩のよこやま を奈良大、学友Oさんに案内していただいて 歩いてきました。京王多摩センター駅経由、車を一本杉公園の駐車場(かつての江夏投手が引退投球を行った一本杉球場がある)に入れて、東順路を道標に沿って10分ほど歩く。
古民家(旧加藤家住宅)の北東50mにある池のほとり、シダレサクラの横に「多摩の横山・万葉歌碑」があります。
(鯉のぼりの上がる古民家)
『万葉集・巻20-4417』 「赤駒(あかごま)を 山野(やまの)に放(はが)し 捕りかにて 多摩の横山 徒歩(かし)ゆか遣(や)らむ」。
(新緑の公園の一角に建っていました)
建立:2005年5月:東京多摩グリーンロータリークラブ寄贈。
武蔵の国で、現在の東京都の外れ、神奈川県との県境に近く、周りは開発されて昔の面影はありません。わずかにここの尾根道だけが残っているのでした。
この尾根筋には、鎌倉古道(鎌倉街道早ノ道、鎌倉街道上ノ道、軍事戦略鎌倉道)や奥州古道、奥州廃道、古代の東海道、などの歴史街道が縦走、横断し、その痕跡や伝説などが語り継がれているのです。
防人(さきもり)とは、国の先端(サキ)を守る者の意で、筑紫・壱岐・対馬に派遣された兵士。遠江(東海道)、信濃(東山道)以東の東国軍団の兵士の中から選抜されていた。武蔵の防人は国府(東京都府中市大国魂神社横手の地にあったという)に終結した後、相模を経て難波に向った。「多摩の横山」はその途中にあるのです。
(防人見返りの峠・・・振りかえっても武蔵国はこれから先は見えなくなる。)
(多摩ニュータウンで開発されて、ほぼ半世紀が経過する、現在の横山周辺。)
尚、この歌碑は、府中市の府中の森博物館の庭にも建立されています。
(府中の森にある、同名の万葉歌碑)
多摩ニュータウンの開発されたマンション群や整備された道路を通りながら、古代の風景を連想しつつ帰路につきました。案内していただいた Oさん ありがとうございました。
天気にも恵まれ、暑くなく寒くなく快適な一日でした。
1000年余の前の昔みちが、まだ所々に存在していることに、多摩市の古文化財に対する心意気が感じとれました。
防人の、家族を残し旅だった思いも伝わってくるようでした。
有難うございました。
時代の変遷が偲ばれます。
お世話になりました。