高崎市で行われた「多胡郡建郡1300年記念シンポジウム」が開催されたので、近くの上野三碑を見学してから翌日の早朝に高崎市吉井町にある万葉歌碑を訪ねた。(2011.3.6)
『巻14-3411』
「多胡の嶺に 寄せ綱延へて 寄すれども あにくやしづし その顔良きに」
(多胡の山に引き綱かけて引き寄せても、憎いことにあの娘は近寄っても来ない、その美しい顔を鼻にかけているのかい)
場所:吉井町馬庭飯玉神社境内(馬庭駅北側)
揮毫:尾上八郎(柴舟おのえさいしゅう)国文学者
建立:昭和9年11月
(馬庭飯玉神社境内にある 多胡の嶺の万葉歌碑)
多胡の郷は古くから栄えていたところで、多胡郡の名前は『続日本紀』や、日本三古碑のひとつである『多胡碑』に建郡の記録がある。この郷から見える山々は多いが、牛を伏せたような姿の「牛伏山」が南に望めるので、この山が「多胡の嶺」と伝えられている。
歌には伝説がある。むかし牛伏山に住む天狗が、郷の美しい娘に懸想した。かなわぬ恋に天狗は娘を山にしてしまい、牛伏山の脇に縛り付けてしまった。この山が多胡美人として地元で親しまれている朝日岳だと伝えられている。
(馬庭飯玉神社とそのすぐ南にある上信電鉄馬庭駅)
(万葉歌碑近くから見える、多胡の嶺:手前左の山が牛伏山491m、その右にある山が朝日岳)
余談であるが、馬庭駅から北西に300mのところに馬庭念流の道場がある。馬庭念流は木曽義仲の四天王樋口兼光の子孫が始祖で、明応年間(1492~1501)にこの地に移住したといわれている。「寛永御前試合」(1634年)に中条流を破り有名になった。上野(こうづけ)一円に門弟をもち農民の間に根を下ろしたところに特徴があったといわれ、近世上州の剣道を席巻した。
(馬庭念流道場は、現在も念流第二十世樋口氏の代であり資料館にもなっていて、毎年模範試合が行われているそうである。)
(鏑川かぶらがわの入野橋付近。この川の先が入野の奥で、先週掲載した多胡の入野碑がある。)
多胡郡の建郡1300年記念と合わせての、万葉歌碑の探勝も又違った味わいが感じられるところであった。でも、この地域の娘に美人が多いかは確かめられませんでした。
掲載が遅れたのは、その翌日3/8.9日に高校の同級生と千葉に1泊のゴルフに行っていたため今日の掲載となってしまいました。