直木三十五記念館の日々

直木賞にその名を残す直木三十五の記念館は市民参加型のミュージアム。運営の悪戦苦闘をストレートにお伝えします。

昨日は生国魂神社

2007年09月10日 | Weblog
 昨日は生国魂神社の例祭で氏子の代表のお歴々を前に講演をさせていただく。まずは掴みとして直木三十五が出生地から生玉の氏子であるという推論たてたことと、その裏づけとして昭和6年に書いた「大阪物語」の「平野から天王寺」とをいう章で生玉の縁起をしめす大前提で「私は生国魂神社の氏子であるが二十年来参拝していない」旨の文章があることを紹介した。あとは映画製作に手を出した初期の段階で近松の「生玉心中」のシナリオをかいて映画をとったことも紹介した。なお「大阪物語」には今も続く夏祭りの獅子舞が直木が子供の頃にはなくて最近(大正末期か昭和初期に)はじまった行事だといいながら、所詮大阪の神社仏閣の習俗は高々徳川時代からはじまったことが多いから、昭和からはじめたことで今風であっても何も違和感がないとも書いている。これを紹介したことも大変よろこんでくれた。

 オダサク倶楽部の井村氏よりメールで夫婦善哉続編が筆が冴えないとの感想から織田自らが封印したのではないかとの大胆推論が示されていた。詳細はわからぬものの市井の町人学者同士としては大いに支持したい。我々には研究し考察する自由がある。