本当に困ったことがあった時って、なかなか人には相談も出来ないし、誰にも話せないっていう事がありますよね。
ブログの更新が滞っていたのは、そんな事もあって。
ちょっと特異な事なので、詳細は書くわけにいかず、それに、別にエクセルで作成しなくてはならないものもあったし、仕事の方でもトラブルがあり、時間的精神的に余裕がなかったと言う事もあります。
少し進展もあったので、また、解決したら(解決はないかな?落ち着いたら)記録しておきたいと思います。
簡単に言うと、終末期治療をどうするかと言うことなんですが(直接家の誰かがと言う訳ではありません。親戚にですが)、どういう風に生かすというか…、やはり生かすになってしまうような、治療を(たぶんもうやっているんだと思う)、今その人に会わせてもらえない状況なので、よくわからないんです。
でも、私は会いたい。
もしも、相手がわからなくてもいいんです。
どんな姿でも会いたい。
そうなった姿を誰にも知らせたくない実子が、入院している事も秘密にしているのですが、でも、もうそう長くはないはずです。
本人は会いたい人もあるだろうし、私のように相手がわからなくても、とにかく会わせてほしい人は沢山いるはずなんです。
難しいです。
意識がないようでいて、わかっている事もあるのに…。
そういう姿だからこそ、見せなくてはいけない人もいるはず。
本人の意思はどうなんだろう。
本人は誰が来ても何も分からないから、来る必要はない。そばについていても何もわからないから一人でいいのだ。と実子は言う。
私は自分の父親の癌の終末期を見たけれど、そんなことはない。
そばに付いているだけで、それだけで、どれほど本人は楽になるか見てきた。
わからないように見えても、声を掛ける事の必要性、重要性も見てきた。
自分の親なら、たとえば兄弟がそんな事を言えば、そんなことはないよ。って言えるけれど、私の口出しする事ではないし…。
黙って会いにいってしまおうかとも、思ったけれど、あっちでもめこっちでもめ、かなわない願いになってしまった。
こういう時って、人の本性が見えるよね。
もうちょっと近ければなあ…。
遠い空が恨めしい…。
会いたいなあ…。
実家の父の、終末期の事はいずれ、記事にしようと思っています。
今回の人は実子は何人かいるんですが、もともと仲が悪く、隠しているのは長子なんですが、みな遠方なので、知らせていない事もありえます。私にも親代わりの人なので、でも、先日思い切って、会いに行ったので、それでよかったと思うしかないかと思ったり…。でもその時も私たちが行く事を聞きつけた長子が、わざわざやってきて、今思うと直接話をさせないようにしていたように思います。
でも、もともと、親のように、そして私を妹のように可愛がってくれていた家族の事で、見舞い云々もなんですが、家族の中での悲しい諍いを見るのが辛いです。
昔の、親たちが仕事をしている田の畔で戯れていたあの時に戻りたいです。その田も、更地になってしまっていましたが…。諸行無常って言う事でしょうか…。
わたし、先日のことですが、娘から「私も書いているんだけど、気を悪くしないで」とENDINGNOTEを渡されています。
よしこさんならご存知かと思いますが、重い病気や、大怪我をして意思が伝えられなかったり、一方しか知らなかったりしたとき、本人の財産負債を含めた内情や死後どうする科まで書くノートなんですが、いろいろと項目があり、懇切丁寧に書く欄が設定してあり、友人知人の欄もあります。
しかし、ここはどうも死後のことらしく、治療中の見舞いまでは書いてなくて、、、、、
連れ合いは、どう書こうが、、、、要望どおりにならないからと言っています。
そうですね、末期になったとき見舞いをどうするのかと言うものもありそうですね。
しかし、一般論として見物的見舞いは別にして、できるだけ最後を見舞って欲しいと言うのは患者の心ではないでしょうか。
実子は一人なんでしょうね。哀れな姿を人に見せたくないのでしょうか。
せめて元気な頃の姿を思い起こして、胸のうちで話しかけるしかないでしょうね。
話は違うかもしれませんが、寺の坊さんの説教のひとつに「亡くなった人を思い起こすのが最大の供養だ」だと言っていたのを思い出します。