五劫の切れ端(ごこうのきれはし)

仏教の支流と源流のつまみ食い

悪魔を便利に使う男 其の壱

2005-12-06 14:27:58 | 仏教以外の宗教
■「異文化交流」が無条件に讃美されたり、「異文化の理解」が安直に推奨されるのは困った事です。一つの家族の中でもぎくしゃくする人間関係、長続きしない恋愛の情熱、最近では数十年連れ添った夫婦が熟年離婚が流行るように、同じ文化を共有している人間同士でも交流するのは至難の技なのです。言葉が違うという事は、世界の切り取り方がまったく違うという事です。一つの物の名前が内包している意味とそれが象徴するイメージは、別の文化圏に属する者にとっては実感も出来ず理解不能の難問です。ですから、「悪魔」にとり憑かれたと言い張る正体不明の男が現われた時に、勝手な井戸端会議を開いて手軽な「正義」を掲げて見せてくれるワイド・ショーでさえも、当惑して口ごもるしかないのです。

■悪魔が体内に入って、やがて去った、そんな話を聞くと、ドストエフスキーの小説『悪霊』の冒頭に引用された二つの文を思い出します。


どうあがいても、わだちは見えぬ、
道踏み迷うたぞ、なんとしょう?
悪霊めに憑かれて、荒野のなかを、
堂々めぐりする羽目か。
……………………………………
あまたの悪霊めは、どこへといそぐ、
なんとて悲しく歌うたう?
かまどの神の葬いか、
それとも魔女の嫁入りか   A・プーシキン/


 そこなる山べに、おびただしき豚の群れ、飼われありしかば、悪霊ども、その豚に入ることを許せと願えり。イエス許したもう。悪霊ども、人より出でて豚に入りたれば、その群れ、崖より湖に駆けくだりて溺る。牧者ども、起りしことを見るや、逃げ行きて町にも村にも告げたり、人びと、起りしことを見んとて、出でてイエスのもとに来たり、悪霊の離れし人の、衣服をつけ、心もたしかにて、イエスの足もとに坐しおるを見て懼れあえり。悪霊に憑かれたる人の癒えしさまを見し者、これを彼らに告げたり。
               ルカ福音書 第8章32~36節


■ロシア正教に救いを求めたドストエフスキーが、どんな気持ちでこの引用を思い立ったのか、分かったような気になって読んでいましたが、本当に「悪魔憑き」を主張する人物が犯罪者として出現して当惑しているようだと、本当はこの大作をきちんと読めてはいなかったのだと反省するしか有りません。日本にも「魔が差す」という表現は有りますが、自称日系ペルー人の供述に出て来る「悪魔」話とは随分とニュアンスが違うようです。彼がキリスト教文化との関係を否定しても、「ホセ」という名前はヨセフですし、「マヌエル」はイマニエルです。偽名の方もキリスト教由来の名前が並んでいますから、彼はどっぷりとキリスト教文化の中で育っていると考える方が良いでしょう。

■新聞報道を読む限り、彼が言う事は、全部ウソのようです。「犠牲者の女児は知らない」「アリバイが有る」「ガス・コンロは女友達から貰った」「自分は日系三世のペルー人だ」等々、一つも本当の話は無いようです。名前さえも「ファン・カルロス・ピサロ・ヤギ」なのか、「ホセ・マヌエル・トーレス・ヤケ」なのか、それとも他に本名を持っているのか、担当の弁護士も記者会見するのが馬鹿馬鹿しくなり始めているようです。「特定の宗教を信仰しているわけではないが、神を信じている」と語る南米育ちの怪しい男と、どんな交流をすれば良いのか……。

其の弐に続く

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