五劫の切れ端(ごこうのきれはし)

仏教の支流と源流のつまみ食い

生命のアンバランス

2005-10-08 01:09:39 | 迷いのエッセイ
■暫く中断している拙ブログにも、毎日読者の皆様がお立ち寄りになっている事に心苦しいものを感じております。玄奘ファンや、唯識思想に興味を持たれている方には、何度も不快な落胆の気分を味わわせてしまっているに違いなく、誠に申し訳ありません。でも、『玄奘さんの御仕事』はもう少しお待ち下さい。近々、再開しますが、唯識と中観という第一のクライマックスに入ってしまったものですから、少々慎重になっております。お詫びというわけでもないのですが、この頃、日本では生命に関する煩悩が暴走しているような気がしてならないので、今回はその点を考えてみようと思います。

■「安くて旨い牛丼」が食べられるか食べられないか、それが日米間の大問題になりそうな勢いです。牛に牛を食わせるような育て方をして、コストを削減して安い牛肉を限りなく供給しようという商売上の話は分かります。カウやブルと、ビーフを区別して喋る英語文化圏と、牛と牛肉というように訓読と音読で殺生戒を破る免罪符にしている日本とでは、牛肉に対する感覚がまったく違うでしょう。チャイナの道教思想の影響も有って、智恵深い老人が牛に乗っている図に特別な感情を持つのが漢字文化圏の知識人達に共通の感覚でした。禅宗の『十牛図』の話には深入りしませんが、養命酒や漢方薬の宣伝にも牛に乗った偉い人のイメージが使われています。

■チャイナは海の国ではありませんから、海は単純に怪獣や魔物が住んでいる恐ろしい場所と考えていたようです。日本人が命を懸けて食べるフグを考えても「河豚」と書くのは、長江デルタ周辺でこの魚が大量に捕れたからだそうです。海の豚と書けばイルカです。チャイナの人が好んで食べる肉はポークですから、両方とも昔から食用に供されていたのでしょう。日本人は、山に潜んでいる野生の猪を「山クジラ」と言って食べていたくらいで、海産物に執着する食生活を続けていました。

4日死んだ国内最大の雄のミナミゾウアザラシ「みなぞう」のお別れ会が7日、神奈川県藤沢市の新江ノ島水族館で開かれた。献花台にはおなじみの「アッカンベー」のポーズをした写真。約300人のファンが涙ながらに花を手向け、最後の別れを惜しんだ。
 同水族館の堀由紀子館長(65)は、みなぞうが1995年にウルグアイからやって来たときの印象を振り返ってあいさつ。「スマートで目をクリクリさせる美男子だった。安らかに休んでほしい」と声を詰まらせた。
 献花に訪れた同県小田原市の主婦古園里香さん(34)は「天国でも魚をたくさん食べてほしい」と、ハンカチで涙をぬぐっていた。
 みなぞうは11歳で、飼育年数は10年6カ月だった。
(共同通信) 10月7日
■アザラシは、イヌイットの人々にとっては命の綱となっていた海の幸です。名前を与えて人間の仲間として扱う風景を、アラスカやグリーランドには送信出来ないでしょう。牛丼が食べられるか食べられないか、と大騒動を演出して「最後の一杯」、300円前後の軽食に何台もテレビ・カメラが群がっている風景はインドには送信出来ませんし、米国人の目にも奇異であり驚異でしょう。豚肉料理となればイスラム諸国には紹介出来ません。鶏肉だけは、世界中で食されているというのが不思議ですが、大小の区別無く昔から人間の傍に鳥は居たのでしょう。鳥類を食べるのを忌避するのはチベット仏教を信仰している人達だけです。そのチベット人達は魚も絶対に食べません。最近では、「国籍」が変ってしまって、しつこく油で揚げてアンカケにする不味い魚しか手に入らなかった伝統を残すチャイニーズ料理が蔓延して、魚料理を食べる珍しいチベット人も見られますが、その人をチベット人と呼べるかどうかは問題です。

■宗教上のタブーを考えますと、日本人が海外からの映像を観て、救いようも無いほどの違和感を覚える事は無いのではないでしょうか?つまり、日本人はどんな生き物の肉でも食べても平気である反面、どんな生き物も「人間扱い」して喜べる性質を持っているということです。犬に衣服を着せたり毛を刈り込んで喜ぶという、帝国主義時代の欧州が暇潰しに始めた風習を真似て悦に入っているのに、「韓流ブーム」が良い商売になってしまう国です。朝鮮半島の肉料理は貴重な牛よりも犬の肉が主流でしょう。日本人が絶対に食べない物(肉)は何だろう?と考えるのは、宗教文化を考える場合に、とても良い訓練になります。

■ゾウアザラシに名前を付けて、人間扱いして葬式を営みながら、珍味として食べても平気なのが日本人です。何でも食べる文化は、恐るべき貧困と飢餓状態から生まれた可能性が高いので、小金持ちになった時には、何でも食べて生き残る習慣が、何でも食べたくなってしまう病気に変換されてしまいます。これはとても複雑な文化の一面を考える時に役立つ情報です。

仏教伝来から、日本人は四足を食べるのを嫌い。殺生を忌み嫌った
等と言う大嘘が「日本の伝統」を語る時の前提とされてしまいます。四足のウサギを二本足のトリのように「羽」で数えたり、猪は山クジラで、馬は桜肉というように、古くから身近にいた動物を食べて日本人は生き残って来ました。中身を食べたら、外側の皮革だって無駄になどしませんでした。ただ、動物を解体したり革製品を作る人達を被差別階級に落とし込んで、穢れを嫌って「清浄」を尊ぶ文化を偽造してしまいました。

■それが今でも世界中が日本の不思議としている差別問題の起源となっているのです。今でも大阪の川原で野犬化した犬にせっせと餌を与えて安心している日本人や、アマゾンの密林や中南米の沙漠から蛇やトカゲを輸入して愛玩動物にしている一方で、血抜きが終わったパック詰めの食肉を毎日食べていたりするのが日本人です。西欧伝来の「人類愛」には、人間以外の哺乳類に対する絶対的な差別意識が裏打ちとなっていますし、その差別観が歪んでひっくり返ると命を玩具にするペット商売が繁盛します。遊牧地帯では、犬は重要な道具や兵器となりましたから近しく扱いますが、それは決してペットではありません。ですから、食いもしないし役にも立たない哺乳類をペットにして、固有の生態を無視して服を着せたり風呂に入れたりして御満悦の人間は大きな勘違いをしていると思われます。

■本人は生命尊重の博愛主義者を気取っているのでしょうが、実態は、野生を破壊して人間に従属させて全ての生命をペットにして弄(もてあそ)ぼうとしているだけかも知れません。ペットが自分を「癒してくれる」と思うのは、妄想である可能性が高いでしょう。何百人も集まって、アザラシの葬式に参列して涙を流す日本人もいれば、幼い我が子を蹴り殺したり、長年育てた後に殺してしまったり、生命に対する思索が非常に乏しくなってしまった日本人の姿が気になって仕方がありません。人が毎日殺されている一方で、日本には居ないはずの蛇や蠍がうろうろしています。どちらも命を考えない所業の結果であれば、人間の無知を証明しているような気がするのですが……

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2 コメント

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Unknown ()
2005-10-08 18:24:22
無知とは狂気である



…と黒澤明監督も言ってましたね。。。
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空さんへ (旅限無)
2005-10-09 07:15:04
仏教では「正覚」と言いますが、そんなに難しい事を目指す前に、「正気」を求めてちょっと立ち止まる……そんな時間が必要でしょうね。神々が住む山を遊び場にしたり商売に利用したりしている内に、昔は神だった熊が人家に出入りするようになりました。猿も山を下っています。町の中に建てた仏教の寺院には「山号」が有る意味を思い出すべきでしょうか。
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