五劫の切れ端(ごこうのきれはし)

仏教の支流と源流のつまみ食い

冷戦の終わりで復活する神々 其の五

2005-09-10 10:06:17 | 仏教以外の宗教
其の四の続き

■ウクライナとロシアの関係は、常に正教会の正統性を争う形で分裂と併合を繰り返して来ました。それは東方教会が持っていた一種の柔軟性とモンゴル帝国の出現という大事件が原因となっています。ラテン語を決して手放さないローマ・カトリックに対して、東方教会はギリシア語を中心として広がった後、教えが定着した場所で使われている各民族の言語が認められ、各地の正教会は独自に組織を運営することが認められていたので、コンスタンティノープル総主教は単なる名誉職のようなもので、ローマの法王庁のような一元的な支配も指導もしなかったのです。

■10世紀に東ローマ帝国の東方教会がウクライナに流れ込み、当時のキエフとロシアを支配していた大公が洗礼を受け、府主教庁がキエフに開かれました。ウクライナ正教の歴史がここから始まります。14世紀に突如としてモンゴル軍団がウクライナを席捲したので、避難する形で府主教庁がモスクワに設立されますが、この時はコンスタンティノープル総主教に服属するウクライナ正教会のままでした。しかし、モンゴルによる支配を脱する中でロシアは逸早く独立を回復して、モスクワ総主教庁もロシア正教の中心として東方教会から独立しました。こうして、モンゴルを駆逐したロシアが覇権を握ってウクライナとの関係が逆転してしまいました。一歩遅れたかに見えたウクライナはポーランドの統治下に入って実質的にカトリックに改宗するのがこの時期です。モンゴルが去った後のロシア世界で、モスクワの風下には立たないという民族意識が生き残っていたのです。

■17世紀はロシア帝国が急速に版図を拡大した時代です。ウクライナ正教もロシア正教会に併合されて独自性が否定されますが、こうした動きはロシア特有のものです。ウクライナ・カトリックはこのロシア正教会の拡大から逃れて生き残ります。第一次大戦が終了してロシア帝国が弱体化すると澎湃として起こった独立の気運に乗ってウクライナ正教会は電光石火でロシア正教会から分離独立を宣言します。しかし、レーニンが起こした社会主義暴力革命が成功すると、その革命運動に便乗したモスクワのロシア正教会が再びウクライナ正教会を呑み込んでしまいました。この時にもウクライナ・カトリックは独立を守り抜きました。

■スターリンの民族政策が始まると、ウクライナ・カトリックは危険視されて徹底的に弾圧されました。そして、ゴルバチョフのペレストロイカによって民族意識が高まると、最初に急進的な民族主義者たちが独立ウクライナ正教会を設立し、「欧州共通の家」を構想するゴルバチョフが電撃的にローマを訪問して、スターリン時代から地下に潜んでいたウクライナ・カトリックが合法化されて600万人の信徒が息を吹き返したのです。こうした歴史の流れの中で、『其の壱』で紹介した新聞記事が伝えるキエフへの総本山移転問題が起こっているのです。記事にはウクライナ正教会の動きが報じられていませんが、おそらくカトリックとの共存を考えているはずです。政治的には軍事的同盟を結んで崩壊したソ連のほとんどの領土を回復しつつあるロシア共和国は、宗教問題でも主導権を回復しようとしているわけです。

■エリツェン時代にロシアの目は中央アジアと中国に移っていますが、エネルギー問題などで欧州との関係が深まっている事も有って、カトリック問題でローマ法王庁との緊張関係が生まれるのはプーチン大統領は臨んでいないと思われます。しかし、先のウクライナ大統領選挙では暗殺未遂事件まで起こして欧州へ向おうとするウクライナを力ずくで引き留めようとしたロシアにとって、チェチェン問題を代表とするイスラーム勢力の独立を阻止するためにも、ウクライナ・カトリックの動きは頭の痛い問題になるでしょう。イスラームと対決している状況で、ローマ法王庁の指示に従う9億人のカトリック信徒までも敵に回すのは得策ではないので、ロシア正教側を宥(なだ)める方向で解決しようとする可能性が高いと思われますが、国内に溜まった不平不満を解消するには宗教的な熱狂を利用して「異端」を屈服させて民族意識を満足させようとする危険は無くなったわけではありません。キリスト教世界でもイスラーム圏に負けない神の名を語った殺し合いが間も無く始まるかも知れないのです。国際情勢の裏側に存在する宗教問題に関する知識も必要な時代になりました。

おしまい。

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