五劫の切れ端(ごこうのきれはし)

仏教の支流と源流のつまみ食い

冷戦の終わりで復活する神々 其の四

2005-09-07 21:29:45 | 仏教以外の宗教
其の参の続き

■16世紀、欧州にはプロテスタントの宗教改革が嵐のように吹き荒れました。同時にロシア正教を信仰するロシア帝国も強大になった時代です。この二つに挟まれた地域はローマ法王庁の支配地域拡大方針に呼応して、自らの教義をカトリックに変更してローマ法王に忠誠を誓うようになりました。「ブレスト・リトフスクの合同」と呼ばれる交渉が成立して、東方教会の典礼やユリウス暦使用などの伝統は認められたので、宗教的な半独立状態になりました。政治的にはローマ法王庁に従いながら、信仰生活は東方教会のままなのですから、ロシア正教会が不快に思うのは当然なのですが、ウクライナには他の選択は無かったでしょう。こうして誕生したウクライナ・カトリックを「ユニエイト(合同)」教会と呼ぶのはこうした歴史が有ったからです。

■第二次大戦後、神学生出身のスターリンがソ連国内の民族問題を一挙に解決しようとしました。社会主義者として宗教を弾圧したスターリンですが、彼はそれ以上に強烈な民族主義者でしたから、ウクライナを完全にロシア化しようと、1000人以上の聖職者と30万人以上の信者を虐殺してしまいます。目的はウクライナの独立運動を根絶やしにする事で、精神文化の中核をロシア正教に入れ替えてしまうのが最も効果的だと「民族問題の専門家」のスターリンは知っていたのです。先にも紹介したように、ウクライナは「敵の敵は味方」と考えてナチス・ドイツのバルバロッサ作戦に敗れた後、積極的に対ソ戦争に参加したのですが、スターリンにとってこの事実はウクライナ弾圧には絶好の理由となりました。このスターリンの宗教弾圧によって米国やカナダに亡命したウクライナ人達が「亡命教会」を開きましたが、多くの信者は森の奥や隠れ家で礼拝を続けたそうです。正に命懸けの信仰でした。

■1988年の12月、ペレストロイカを進めていたゴルバチョフ共産党書記長がバチカンを訪問して世界を驚かせました。「欧州共通の家」にロシアが参加する構想を持っていたゴルバチョフと、ヨハネ・パウロ2世が進めていた東方外交政策が合致して和解が成立しました。このローマ会談よりも前に、ウクライナ現地ではロシア正教会からの宗教的分離独立が宣言されていたのです。この動きがウクライナの政治的独立を求める運動になるのを恐れていたゴルバチョフは、ローマ法王に「ウクライナ・カトリック」の再開を約束したのです。しかし、ロシア正教会に対するウクライナの恨みと憎悪は、その程度の譲歩で満足する程度のものではなかったのです。信仰が認められれば、次には教会財産の奪還運動が起こります。ロシア正教会が入っていた施設にウクライナ人が乱入して、暴力的に取り返そうとすれば、ロシア正教側でも抵抗しますから、無数の流血事件が起きたようです。

■教会が一つしか無いような小さな村には、州政府から「仲良く交互に教会を使用せよ」という指示が出されましたが、ロシア正教側は居座って扉に鍵を掛けてカトリック信者を拒否するような所が多く、カトリック側は州政府の指示に従うという名目で、過激な財産奪還闘争を仕掛けました。スターリン時代に宗教的な理由で亡命していたカトリック系の聖職者やウクライナ人達が舞い戻ってこの闘争は燃え上がりました。暴動を恐れた州政府の中には、ロシア連邦の内務省特殊部隊(OMON)に出動を要請して非常事態を宣言する所さえ現れたのです。州政府も特殊部隊もロシア正教側を守る立場を取らざるを得なくなりますから、カトリック側から見れば自分達が弾圧されていると考えます。

■ゴルバチョフがローマを訪問したのですから、外交儀礼に従って、ローマ法王がソ連を訪問しなければなりませんでした。これに成功すれば、ゴルバチョフの外交政策「欧州共通の家」構想にローマ法王庁からお墨付きが貰える上に、国内向けにペレストロイカが成功している事を示すことも出来るでしょう。しかし、ローマ法王庁はウクライナでの「カトリック弾圧」に神経を尖らせていたので、なかなか返礼訪問は実現しませんでした。ロシア正教の支持を失うわけには行かないゴルバチョフは、ウクライナのカトリック側に立って政治決断は下せませんから、逡巡している間にソ連自体が消滅してしまったのです。

其の五に続く

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