畿内に邪馬臺國が存在していたとしたら、もう大和(奈良盆地)しかありえなわけですよね。大和に邪馬臺國が存在していたなら、纏向が中心地なわけです。どうして此処が中心地かというと、この纏向に辰砂(水銀)が集められ、中国に輸出されたのだと思います。この時期大量に産出されたように考えています。近くから集められた辰砂を川を使って運びだすには、適地だったのだと思います。多くの労働力が必要とされたため、人々が集まって来たのだと思われます。
そしてやはり、三輪山が神として存在しているからです。三輪山は神奈備です。この時代の祭祀の重要性を考えると、此処がやはり中心地です。この時代は自然崇拝ですよね。三輪山は、神が宿る場所、依り代です。それで、この三輪山の神の依り代から、神懸かりして神託などを伝えたのが卑弥呼なのでは?ですので、魏志倭人伝には鬼道とか記述されていますが、・・・三輪山が大神として、神の依り代として存在している限り、卑弥呼の祭祀は三輪山への祭祀です。
魏志倭人伝には、卑弥呼は共立されたとされます。共立されて争いは治まったのですが、これは卑弥呼が、融和策として三輪山の祭祀を行なうことで争いが治まったということだと思います。この時代はまだ自然崇拝や祖霊信仰などの原始宗教です。ですので、卑弥呼の居住地は、三輪山から遠く離れることはありえないように思います。
卑弥呼は此処、箸墓に眠っています。それと臺与はホケノ山古墳だと思うのですがこれはどうなのでしょうか?ともかく、卑弥呼は、孝霊天皇の皇女、倭迹迹日百襲媛命ではないと思います。 (写真は三輪山)
そしてやはり、三輪山が神として存在しているからです。三輪山は神奈備です。この時代の祭祀の重要性を考えると、此処がやはり中心地です。この時代は自然崇拝ですよね。三輪山は、神が宿る場所、依り代です。それで、この三輪山の神の依り代から、神懸かりして神託などを伝えたのが卑弥呼なのでは?ですので、魏志倭人伝には鬼道とか記述されていますが、・・・三輪山が大神として、神の依り代として存在している限り、卑弥呼の祭祀は三輪山への祭祀です。
魏志倭人伝には、卑弥呼は共立されたとされます。共立されて争いは治まったのですが、これは卑弥呼が、融和策として三輪山の祭祀を行なうことで争いが治まったということだと思います。この時代はまだ自然崇拝や祖霊信仰などの原始宗教です。ですので、卑弥呼の居住地は、三輪山から遠く離れることはありえないように思います。
卑弥呼は此処、箸墓に眠っています。それと臺与はホケノ山古墳だと思うのですがこれはどうなのでしょうか?ともかく、卑弥呼は、孝霊天皇の皇女、倭迹迹日百襲媛命ではないと思います。 (写真は三輪山)