聖徳太子の謎 (聖徳太子はふたりいた)

ふたりの聖徳太子とは、竹田皇子と押坂彦人大兄皇子です。
隅田八幡神社人物画像鏡にある日十大王とは聖徳太子のこと。

額田王の謎と推古天皇

2017年01月01日 | 日本書紀の謎


推古天皇は、額田部皇女とされます。彼女は何故に額田なのだろうか?以前から疑問がありました。幼いころ、額田部氏に養育されたとされます?本当なのでしょうか?これは理由が見つからないからの推測でしかありません。

そして、額田というと、天武天皇の妃で、歌人としても有名な額田王(ぬかたのおおきみ)を連想します。額田王は、日本書紀においては、鏡王の娘で大海人皇子(天武天皇)に嫁し十市皇女を生むとされます。
はたして、推古はこの額田王と関係あるのだろうか?

この額田王も、日本書紀、古事記の謎を解くのに重要な人物です。額田王は、「おおきみ」ですので、もちろん王家の女性です。では何故出自が不明なのでしょうか?それは、彼女の出自が改竄された系譜に関わってくるからでもあります。そして、天武の本来の皇后
だったからです。

額田王は、蘇我馬子が、消し去った本来の王家の人物から繋がるからでもあり、また、天智系の天皇や藤原氏による改竄した系譜に関わってくるために、彼女の本当の出自を書けないからでもあります。天智の娘たち(大田皇女と鸕野讃良皇女) は、女系で王家とは繋がりますが,(お母さんの遠智娘は茅渟王の娘)男系では王家と繋がらない。
天智が彼女を欲したのは、遠智娘と同様に男系で繋がる王家の姫王だったからです。

この、額田王こそが、古代から続く王家の血を引く天武の本来の皇后です。

今回は、額田王の出自の謎を、彼女のお姉さんであるとされる、忍阪(押坂、おしさか)
にある鏡王女のお墓と、彼女たちの名前から謎ときます。

額田部皇女とは、推古天皇のことではない。

延喜年間(901~923)に編纂が行われた、延喜諸陵式(諸陵寮を管理する役所)によれば、陵内には糠手姫皇女の押坂墓、大伴皇女の押坂内墓、鏡女王の押坂墓があるとされます。ここ忍阪には、糠手姫皇女、大伴皇女、鏡女王、3人の女性が眠るお墓が、隣接して同じ領内あります。この延喜諸陵式には、舒明天皇のお墓であるなんて記述はありません。
そう、この地は王家の女性が眠る墓地です。

もう何度も登場していますが、押坂彦人大兄皇子の妃であり、嶋皇祖母命とされる糠手姫皇女も重要人物です。同じ場所にお墓があるこの三人は血縁関係があります。そう親子です。額田王の、お姉さんと、祖母と曾祖母です。後にお母さんが、祖母の糠手姫皇女の押坂墓に合葬されたのです。そして、額田王自身のお墓も、もとはこの地にあったとされます。
前述してきましたが、糠手姫皇女は舒明天皇のお母さんではない。糠手姫皇女の押坂墓は舒明天皇陵ではない。

日本書紀の下巻の天皇たちは、天武が皇祖(本来は王祖)と仰ぐ押坂彦人大兄皇子(日十大王)から繋がります。本来は彼が大王だとして記述されていました。その時、天武は自身の系譜に関係する人物を皇祖の尊称ををつけました。嶋皇祖母命とされる彼女こそ、宝皇女(皇極、斉明天)、軽皇子のお母さんであり、本来の王家の血を引き継ぐ人物です。彼らは、いわば、天武系の王たちです。
蘇我氏が関係する舒明のお母さんではありません。
彼らは皇祖の尊称で繋がります。

天智のお父さんを舒明として改竄したため、舒明の地位を上げるため、敏達の皇女である、糠手姫皇女を舒明のお母さんとして改竄している。逆に、孝徳のお父さんである、茅渟王 の位を下げるために、敏達の皇女ではない漢王の妹とされる大俣王 をお母さんとしている。ここ、お母さんが交換されている。
つまり、糠手姫皇女の子供は、茅渟王 と桑田王であり、女性とされるこの桑田王こそ、額田王のお母さんであり、彼女の出自を書けなかった理由です。改竄された、天智天皇の系譜に関わるからです。

そして、この糠手姫皇女のお母さんが、同じ場所に眠る大伴皇女のことであり、彼女こそ額田部皇女なのでは?

謎はこの大伴皇女の名前から推測できます。

この糠手姫皇女の、糠手は本来は額田なんじゃないのだろうかか?そして、額田王はこの糠手姫皇女から繋がる人物なのでは?

大伴皇女は、欽明天皇と蘇我稲目の娘の堅塩姫との間の皇女とされ、推古とは姉妹になります。だとすると、全く蘇我の女性ですよね。おかしいですよね。何故、大伴なのでしょうか?

ごくごく、常識的に考えれば、大伴皇女の大伴は、もちろん大伴氏が関わると考えられますよね。この時代、大伴氏には、 安閑・宣化・欽明の各天皇に仕えたとされる大伴 金村という人物います。この金村の子供に 大伴糠手古という人物がいます。女性なのか男性なのか不明ですが・・・名前からの推測ですが、女性であり、糠手姫皇女の糠手は、この祖母の名、大伴糠手古から名付けられたのでは?

この大伴氏は物部側の豪族です。安閑、宣化天皇の擁立者となり 、蘇我氏と対立していました。後に秦氏、藤原氏とも対立することになります。蘇我の女性が、大伴の名前を持つのはおかしい。

ですので、大伴皇女は欽明天皇と堅塩姫との間の皇女 ではなく、大伴 金村 の娘(大伴糠手古?)と宣化天皇の王子の誰か、王子は、3人います(上殖葉皇子、火焔皇子 、 宅部皇子 、との王女です。蘇我氏が関係する欽明を王だったとして改竄したために、王として即位したことを消された王子たちです。

継体天皇や欽明天皇は、推古のお父さんや祖父を王だったと後に蘇我馬子によって改竄されたものであり、本来の王家とは関係ない人物です。彼らは王として即位はしていません。

この大伴皇女のお母さんの大伴糠手古 ?は、大伴 金村 と額田部氏の娘との子供です。糠手は額田なのでは?そして、大伴皇女と敏達の子供が、糠手姫皇女なのでは。すると古代から繋がる王家の女性です。額田王も、宣化天皇から繋がる王家の人物なのは間違いないように思います。すると、天智の娘たちよりは位が上のはずです。だから本来は彼女が皇后だったのでは?天武の最初の后です。

宣化天皇から、額田王までの系譜に関しては、 かなりややこしいので纏めます。
それは、生年月日が全く不明だからです。ですので名前からの推測もあるのですが・・・

*同じ墓域内に、糠手姫皇女、大伴皇女、鏡女王、3人の女性が眠るお墓があるとされていて、彼女たちは血縁関係があるのでは?これ、当然の推測ですよね。改竄された系譜の矛盾が、こういうところから判明する。彼女たちは額田王の、お姉さんと、祖母と曾祖母です。

*大伴皇女は欽明天皇と蘇我稲目の娘の堅塩姫との娘とされますが、そうではなく、大伴氏が関係する娘である。これも、まず間違いないように思うのですが・・・?

*大伴 金村の娘に、大伴糠手古という人物がいます。糠手は額田なのでは?つまり糠手古のお母さんは、額田部氏の娘なのでは?
大伴 金村と額田部氏の娘との子供が大伴糠手古なのでは?

*宣化天皇の王子か、あるいはその子供から繋がる人物、上殖葉皇子の王子である十市王かな?(名前からの推測ですが、額田王の子供が十市皇女)この十市王と、大伴 金村の娘の大伴糠手古との子供が、大伴皇女なのでは?大伴皇女に関しては推測するしかないのですが、・・・。

*大伴皇女は、大伴 金村から繋がる女性である。額田部皇女とは、推古のことではなく、この大伴皇女のことであり、推古が額田部皇女とされるのは、本来、大伴皇女が敏達の皇后だったからなのでは?権力を握った蘇我馬子による、蘇我の女帝である、推古の地位を上げ、対立する、大伴氏の女性の地位を低くする操作が行われている。

*大伴皇女と、敏達の子供が、嶋皇祖母命とされる押坂彦人大兄皇子の后である糠手姫皇女。 宝皇女(皇極、斉明天皇)や軽皇子のお父さんである茅渟王や、桑田王 のお母さんである。舒明天皇のお母さんではない。

* 押坂彦人大兄皇子と糠手姫皇女の子供で娘の桑田王と、鏡王との娘たちが、 鏡王女と額田王なのでは?王家の女性だから、「おおきみ」なのです。

*そしてこの鏡王もまた、宣化天皇から繋がる王家の人物とされます。 額田鏡王とされています。つまり、額田王は男系・女系からも繋がる姫王です。

  ウイッキベディア・・・
 『古代豪族系図集覧』(近藤敏喬編)によると
宣化天皇-火焔皇子-阿方王ー額田鏡王-額田女王とある。
      ********************
額田王の系譜・・・
宣化天皇ー上殖葉皇子ー十市王・大伴 金村の娘の大伴糠手古ー大伴皇女

大伴皇女(額田部皇女)・敏達天皇ー糠手姫皇女

押坂彦人大兄皇子・糠手姫皇女ー桑田王・鏡王ー鏡王女、額田王

天武の本来の皇后なのですが、天智系の天皇たちは、天智の娘、鸕野讃良皇女 こと持統を皇后にしている。そのために、額田王の本当の出自が消されている。

そして、もうひとつ彼女の系譜を表せない大きな理由があるように思うのですが、・・・これが本当の理由かな?

なんども、記述してきましたが、藤原氏が対立してきた長屋王に関係します。天武の皇子でもう一人気になる人物がいます。それは 長屋王のお父さんである 高市皇子です。

この長屋王に繋がる系譜、押坂彦人大兄皇子から長屋王に繋がる系譜もまた改竄されている。天武系の系譜です。藤原氏は、高市皇子の息子の長屋王と対立していました。彼らは、大王だったの
ではないのだろうか?

ウイッキベディア・・・
『万葉集』巻第2の199~202番に柿本人麻呂作の高市皇子への、『万葉集』中最長の壮大な挽歌が収められている。ここに「高市皇子尊」「後皇子尊」と尊称されている。この尊称から彼が立太子されていたのではないかとの説がある。

高市皇子の長男・長屋王の邸宅跡から発見された「長屋親王宮鮑大贄十編」の木簡、政治情勢、壬申の乱における功績、母の実家の勢力、莫大な資産などから彼が天皇であったという説もある ・・・
     ************************
このウイッキペデア7の指摘にあるように高市皇子は立太子してたのでは?
長屋王と対立していた藤原氏にとっては、彼らが大王では都合が悪いので、系譜が改竄されている。そう、身分を低くされている。身分を低くするには、お母さんを王家と関係ない人物にすることです。長屋王家とされる場所から出土した木簡の記述からの推測では、長屋王や父親である高市皇子は明らかに大王に即位しています。

長屋王のお父さんの高市皇子は、 天武と、胸形徳善女 の尼子娘とされますが、どうなのでしょうか?天智の娘たちの皇子をさしおいて、立太子しているということは、・・・つまり、 高市皇子は、天武と、胸形徳善女 の尼子娘 ではなく、古代の王家から繋がる女性との王子である。すると、額田王しかいない。

第一皇子である高市皇子と第一皇女の十市皇女はともに、天武と 額田王との子供たちなのでは?日本書紀・古事記は編纂後に、天智系天皇や藤原氏によって書き換えられている。

藤原氏は本来の大王だった、長屋王を殺害しました。そして長屋王は藤原氏に祟ることになりました。長屋大王が大王に即位していたということを消すためには、父親である高市王子が大王に即位していなかったとすることです。

天武大王の第一王子であるのに、高市王子が大王に即位していないとするには、母親の身分を下げることです。胸形徳善女の娘の尼子娘という地方豪族の娘ということに変更されています。藤原氏による系譜改竄箇所です。
額田王は采女や巫女などの低い身分の女性ではありません。額田王(ぬかたのおおきみ)の呼称どおり王家の女性です。

「市」の文字が共通する第一王子である高市王子と第一皇女の十市皇女は同母姉弟です。額田王の子供たちです。

万葉集には高市王子作の十市皇女への三首の挽歌です。
万葉集巻第二 156~158番

三諸の神の神杉 巳具耳矣自得見監乍共 寝ねぬ夜そ多き

三輪山の山辺真麻木綿 短木綿 かくのみゆえに長しと思ひき

山吹の立ちよそひたる山清水 汲みに行かめど道の知らなく


写真は、舒明天皇陵とされる押坂内陵(糠手姫皇女押坂墓)に、同じ陵域内にある大伴皇女押坂内墓と、鏡女王押坂墓です.

この舒明天皇陵(段ノ塚古墳 )を始まりとし、八角墳が採用されたとされます。これ以降は、斉明天皇陵(牽牛子塚古墳)、天武天皇陵、天武・持統合葬陵、草壁皇子の墳墓(束明神古墳)文武天皇陵(中尾山古墳)と、舒明天皇に始まり皇孫の文武天皇まで採用されているとされます。これは、天武系の王たちです。

そして、斉明天皇陵は、いままで地定されていた越智崗上陵ではなく、牽牛子塚古墳です。越智崗上陵は天智の后の袁智天皇こと、茅渟王の娘の遠智娘のお墓です。宝皇女こと斉明天皇とは姉妹です。「段ノ塚」が八角墳なのは、もちろん、糠手姫皇女は押坂彦人大兄皇子 の后であり、宝皇女・軽皇子の祖母だからです。しかし、この「段ノ塚」と呼称されるこの古墳は、舒明天皇陵であるとのとの伝承はありませんでした。滑谷岡に葬られ後に、ここに葬られたかは定かではありません。日本書紀の嘘です。

そして、八角墳はこの段ノ塚古墳 が始まりではなく、斉明天皇陵が始まりですよね?それは、この糠手姫皇女はかなりの長命だったからとされるからです・・・?斉明天皇は661年に亡くなったとされ、糠手姫皇女はなんと664年に亡くなったとさます。そして舒明天皇が移葬されたのは663年であるとされます。

糠手姫皇女は、およそ90歳位まで生きたことになります。今の時代なら、なんら問題のない年齢ですが、この時代としてはかなりの長命です。これ舒明のお母さんを交換したからだと思うんだけど・・・?この没年は、本当の舒明のお母さんである、大俣王の没年ではないのだろうか? つまり、舒明は今考えられている生年より、もっと後の生まれである。

同じく、斉明天皇に関しても同じことが言えます。彼女は594年生まれとされますが、これはありえない。それは、祖父の押坂彦人大兄皇子は、572年生まれだからです。つまり、お父さんの茅渟王が、この592年頃の生まれと考えられるからです。舒明も斉明もともに615年頃の生まれだったのでは?斉明を615年の生まれとすると、皇極天皇として即位したのが27歳で、斉明天皇として即位したのが40歳になり、妥当な年齢になります。日本書紀においては、斉明として即位したのが62歳という、この時代ではありえない即位の年齢です。

ともに、626年生まれの、天智を舒明と宝女王の皇子とするための改竄だとおもうのですが・・・?
押坂彦人大兄皇子、茅渟王、山代王、大王だった彼らの年齢を不詳にする理由です。
天武の生年が不明なのも、本来は天智の方が年上なのですが、宝女王の最初の子供(高向王との子供の漢皇子)を天武にする意図があるのでは?天智と天武は兄弟ではなく、明らかに身分の差がある。「段ノ塚」が八角墳なのは、もちろん、糠手姫皇女は押坂彦人大兄皇子 の后であり、宝皇女・軽皇子の祖母だからです。

新たに発見された、舒明の最初のお墓ではないのだろうかとされる、小山田遺跡に関しても、蘇我氏の墳墓である方墳であり、押坂彦人大兄王子の舒明のお墓ではありえなく、蝦夷のお墓の可能性が高いともいわれています。ではここに合葬たのはだれなのでしょうか?祖母のお墓に額田王のお母さんが合葬され八角墳に作り直されたのではないでしょうか?

天武、持統に関わる人物の墳墓を八角墳にしている。舒明は押坂彦人大兄皇子の皇子なのですが、
お母さんの身分より、即位したのは山代王 です。舒明は天智や天武の本当のお父さんではない。

額田王自身のお墓に関してですが、もとはこの陵域内にあったともされます。後に、孫である葛野王により天武・持統天皇陵の傍に移葬されたそうです。この葛野王 は額田王の娘の十市皇女の子供です。

そして姉とされる鏡王女ですが、・・・彼女は,額田王本人だとも、あるいは妹だともいわれています。お墓が別に存在するとされますので別人だとは思うのですが・・・。
そして、この鏡王女は天智天皇から大化の改新の功績を称えられた中臣鎌足に褒美として下げ渡されたとさます。中臣鎌足が百済王である義慈王の王子、翹岐?だとするとね、これ、天智より、位が上なわけです。下げ渡されたのではなく献上されたわけですが、 彼女が藤原不比等のお母さんともされ、お墓は談山神社の管理となっています。そうすると、藤原不比等は天智天皇(王家の人物ではない)の落胤でなくても、女系で王家の血が流れているわけで、この後の彼の異例の出世も納得できます。
しかし、額田王の姉の「鏡王女」と、不比等の母親である「鏡姫王」は別人です。




写真1、2枚目は、舒明天皇陵とされる押坂内陵(糠手姫皇女)です。
ここから丘を少し登れば鏡女王押坂墓(7,8枚目)です。さらに奥に100mほど登れば大伴皇女押坂内墓(9、10枚目)があります。
近くに日本最古といわれる石仏(石造浮彫伝薬師三尊像)が安置されている石位寺があります。この石仏は、もとは 額田王の念持仏として作られ、本来は近くの栗原寺にあったものです。この栗原寺建立のいきさつは、談山神社の三重塔の伏鉢の銘文に残されています。

由緒によると中臣大島が、草壁王子のために発願し比売朝臣額田が造営したお寺とされます。この比売朝臣額田は、もちろん額田王であり、その言い伝もいまに残ります。額田王のお墓も、もとはこ地にあったとされます。この石仏こそ、額田王の墓石のようなもの?であり、石位寺こそもとの額田王のお墓だったところではないでしょうか?後に、額田王の娘の十市皇女の子供の葛野王によって、この地から天武・持統陵傍に移葬されたといわれます。

厩戸皇子こと、押坂彦人大兄皇子も押坂であり、聖徳太子が少年期までをすごしたとされる、上之宮の地名も、ここから2km程西側にいまも残ります。隅田八幡神社人物画像鏡にある意柴沙加宮はこの付近こそが、意柴沙加宮とされます。また、雄略天皇の泊瀬朝倉宮もこの地の傍にあり、ここいらへんは古くから宮の存在した場所であり、交通の要所でもあります。

この上之宮の名称は、父の宮の上方に営まれたという理由で名付けられました。聖徳太子こと、押坂彦人大兄皇子のお父さんは、敏達天皇であり、宮である訳語田幸玉宮(桜井市戒重)は、まさしくこの上之宮遺跡の北に位置します。



 



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