聖徳太子の謎 (聖徳太子はふたりいた)

ふたりの聖徳太子とは、竹田皇子と押坂彦人大兄皇子です。
隅田八幡神社人物画像鏡にある日十大王とは聖徳太子のこと。

息長帯比売命の妹の豊姫

2010年12月15日 | 卑弥呼は、伊香色謎命


ヤマトというのは、もともと奈良盆地全体を指す言葉ではなく。盆地南東部地域だとい
われます。ヤマト王権、この三輪山麓一帯に発祥した王権も外部の力が加わって成立した。
高天原から地上に降臨した天孫瓊瓊杵尊より先に饒速日命は、十種の神宝を授かり天磐船
に乗って河内の河上の地に天降り、その後大和盆地に移動したとされています。
つまり初期のヤマト政権は、饒速日命を祖とする後の物部氏です。

この初期の物部王権は、九州北部から吉備、吉備から畿内に進出してきた、物部氏や
和邇氏・大伴氏なのどの天孫族です。
この王権が発生する以前には、初めて奈良盆地に農耕をはじめ定住した部族があった。
これが出雲族とも言われる銅鐸を祭祀に用いた部族。
邪馬台国は物部、卑弥呼の男弟の伊香色雄命王国。本拠地は近江。奈良盆地北部の山背、近江を勢力化に置いた部族が、奈良盆地を征服したのが倭国大乱。
卑弥呼共立以前は、邪馬台国の中心地は奈良盆地でなく、近江・山背。
倭国大乱後に大和盆地での拠点はこの三輪山山麓周辺の纒向。


邪馬台国の女王卑弥呼は、魏から親魏倭王という封号を与えられ、その証しである、
金印を授けられています。銅鏡100枚も与えられました。
この時の倭の女王は台与です。台与は「おきながたらしひめのみこと」こと神功皇后です。息長帯比売命の妹とされる豊姫は、台与。卑弥呼の台与。

また狗奴国との紛争時の王です。これらの事績が、記紀編纂時に全く分からなくなって
しまっていることは絶対ありえません。あきらかに削除しています。
倭人伝には、卑弥呼は王だとされています。卑弥呼が王でいいのなら、倭国大乱後に
共立されたとされる卑弥呼が初代ヤマト王権の王です。

物部氏王権であった、初期ヤマト王権。倭人伝の卑弥呼のことが気に入らない人物がいた。
それは持統天皇と、蘇我馬子である。
持統天皇の父は天智天皇、そして、母は、蘇我倉山田石川麻呂の娘の蘇我遠智娘です。
物部氏と蘇我氏は対立関係にあったのは言うまでもありませんが、記紀編纂時には物部氏
は没落していました。
持統天皇は、和風諡号は2つあり、そのひとつに「大倭根子天之廣野日女尊」(おほやま
とねこあめのひろのひめのみこと)というのがあります。
このヤマトネコという称号は7代孝霊・8代孝元・9代開化、22代清寧の諸天皇.
41代持統天皇後の42代文武・43代元明・44代元正など各天皇にも見られます。

これは、天智天皇は、葛城王朝?から続く正当な王朝であるという主張のようにも思われ
ます。
先代旧事本紀では、この葛城の地を支配していたのは、後の尾張氏です。
尾張氏の本拠地はここ、大和盆地南西部の葛城の地です。勿論、物部系の氏族です。
ですが、壬申の乱においては、夫の大海人皇子に多大な支援をしました。
大王家はもともとは、後の物部氏です。
持統天皇や蘇我馬子は、卑弥呼の王権である物部王権を初代としたくなかったので
はないでしょうか?ともかく、卑弥呼の事績を消し去ったのは蘇我馬子です。
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