「私の従軍記」 子供たちへ

平成元年父の誕生日に贈ってくれた本、応召されて帰還するまでの4年間の従軍記を今感謝を込めてブログに載せてみたいと思います

タケゴン 3

2006-07-08 19:06:38 | Weblog
 しかし、椰子は無かったので、実は高値で取引されていたから、ビルン辺りの平地に行ったときの土産に大変喜ばれ、ここらの習慣で何かの祝いには、是非この実が必要だと言っていた。
 バナナ(ピサン)は、台湾産と同じくらいに美味しかった。最初、よく食っていたが、後では飽きてトウモロコシ(ジャゴン)が食いたいなんて言って、初年兵(中西、小川一等兵)に買わせに行かせた。
 パイナップル(ナナス)も美味しかった。初めて買ったが、調理法方が分からなかったので、皮を一寸削って輪切りにして食ったら、みんな舌が切れてヒリヒリして痛かった。その次買ったとき、裏の道を通りがかった現地人の子供(アナク)を呼び込んで、料理をさせた。
 子供(12,3歳ぐらいだったか)は、包丁で皮を私達が
 「オイ、オイ、食うところが無くなるぞ」と、心配するほど厚くサクッ、サクッと切り取った。そして花の跡を螺旋状に深くえぐりとってから、、輪切りにした。
 成る程こうすれば、舌も切れずに美味しかった。缶詰とは違った新鮮な味がした。私が南方で食べたナナスではタケゴン産が一番よかったように思えた。

タケゴン 2

2006-07-07 19:46:02 | Weblog
 11月17日、タケゴン着。
 峠を降りて近衛工兵隊の宿舎に着いた。宿舎は元オランダ軍の兵舎のあとで、奥まった木造、トタン屋根の一室が与えられた。
 そこの一室に通信所を開設。空中線はコタラジャからそのまま、返納せずに持ってきたのを、磁石で本部の方向を確かめ、竹を使って張る。通信感度は本部も近くなったし、高い所だから良好。
 この頃、飛鳥馬五一郎上等兵、西村仁作一等兵は西海岸の分隊へ移り、その後に内地の原隊から、中西憲一、小川 博一等兵が来た。
 宿舎から10メートル位離れて、鉄条網で区切られ、1メートル一寸の道が湖の方に続き、裏門からこの道に出て、一寸行くと湖の上に屋根のついた、マンデー(水浴)場があった。
タケゴンは景色がよく、気候も内地みたいで、霜の降るのは1年に1回ぐらいで、暑くもないし、寒くもなし、内地にある野菜類は大抵とれた。米は内地米のように美味しかった

 
 

タケゴン 1

2006-07-06 19:41:28 | Weblog
 艦砲射撃があってから、1ヶ月ぐらいして本部から、タケゴンに移駐せよとの命令が出た。状況が悪くなったので、山の中に避難だとみんな感じていた。
 タケゴンはアチェ州の中で、海岸から60キロメートル、高さ1002メートルの、昔、オランダ軍の保養地だった所である。
 11月15日、コタラジャを通信機材、荷物一切を軍用トラックに積んで出発。平野部を走り、シグリの野戦倉庫の爆撃焼け跡を見て、ビルン着、宿泊。
 ビルンからは一路、山の中をひた走る。この辺の現地人は軍用の車を見ると、サッと道端によける。実に敏感だ。きっと、オランダ軍のか、日本軍のかで無情にひき殺される事があったのではないかと思った。
 タケゴンの町まで山また山、道路は舗装されていたが、一山越えるとスーッと走って谷川にさしかかると、川に直角に鉄橋が架かっていた。それでギューッと急カーブを切って橋を渡り、息つく暇もなく、今度は上りカーブをエンジンのスロットル全開で上がる。所々、鉄橋が折れて川に落ち、その横に木製の橋が架けてあった。私達は振り落とされまいと、荷物にしがみついていた。この間、地図を見たら、2,855mの山の裾を走っていたことになる。
 上ったり、下ったり、谷を渡り、裾を回って、やっと、タケゴンが一望できる峠に出た。この峠は「旗の峠」と言って、アチェ族がオランダ軍と30年間戦った最後の峠であると標木に書かれてあった。
 ここから見ると、タケゴンの町は、広い湖を控えた盆地の中にあった。

 

コタラジャ 8

2006-07-05 11:48:36 | Weblog
 教官は日本の軍人だったようだ。時にはそこの兵補達と話すこともあった。
 「日本好きか?」
 「大好きだ。しかし、プクルカシ上等ない。」
 プクルカシとはビンタの事。教官が日本流にビンタを取るらしい。
日本は好きだが、殴る事は嫌いだということをしきりに言った。この兵補たちも後では将校服を着て、刀を吊ったのを見かけるようになり、
 「日本の兵隊が敬礼をしないのはけしからん!」などと文句を言ってくるようになっていった。
 ある日、巡察といって本部から少尉がやって来た。姓名は忘れたが、いろいろな事を調べた後、通信所に入って無線機をいじっていた。受信機を耳に掛けてあちこちのダイヤルを回していた。そしてそそくさと立ち去って行った。
 その後、分隊長が通信機がおかしいと言ってきた。そして自分で何か一生懸命、調べていたが、どうしても分からないと言う。終いには、
 「斉藤、お前その受信機を持って、俺について来い」
と言う。私は受信機を抱えて分隊長の後から、材料廠みたいな所について行ったら、そこは修理工場で、机の上の通信機を調べていた下士官(軍曹だった)に修理を依頼した。そして、
 「斉藤、お前ここに残っておれ」と命令して帰って行った。
 下士官は、テスターを使ったり、別の真空管を差し替えてみたりして、調べていたが、原因不明で元のようにはならなかったようだ。
 1時間位して分隊長が来たので、受信機を通信所に持ち帰った。そして、空中線、接地線、電源の電池と接続してみたが、全然聞こえなかった。
 分隊長はイライラして、
 「斉藤、お前始終見とったか」
 「ハイ、見ておりました」
 「古い悪い真空管と差し替えられているぞ。お前気付かなかったか」
 「ハイ、気付きませんでした」
 「馬鹿野郎!」と怒鳴られてしまった。
 修理しているのは上位の軍曹殿、こっちは1等兵。下手な事を言おうものなら、叱り飛ばされるか、ビンタものだ。もし、気付いていたとしても、口に出して言える訳がなかった。そこで
 「分隊長殿、予備の真空管を使ってみたらどうでありますか」と進言してみた。
 「アッ、そうだっ」
と器材箱から予備を取り出して、悪いと思われるのと差し替えて、スイッチを入れた。成績良好。分隊長も安堵。このまま、終戦まで保てた。
 しかし、この事故で私は進級上、非常に損をした。何故なら、その真空管の事故は私が取り扱いの不注意で起きたとされたからだ。この事故は巡察の将校がA電池(1,5ボルト)とC電池(1-4,5ボルト)の接続違いによる芯線(ヒーター)の断線ではなかったかと思うからだ。
 卑怯な将校もいたものだ。私達通信手は電鍵を叩くだけで、暗号を組み、通信機の修理点検などは、一切下士官以上がすることになっていて、私達には軍事秘密として、手を触れさせてもらえなかった。

コタラジャ 7

2006-07-04 19:31:09 | Weblog
 ここの司令部では、民間の短波受信機を改造して受信に使っていた。民間人は短波ラジオで外国放送を聞いて、スパイ活動をするというので,短波ラジオ受信機は、全部没収してしまったという。
 「受信するには改造ラジオで充分だ。電池も不要だし、器材の消耗も少ないから、お前の所にも改造して一台やろう」と言う話があったが、タケゴンに移駐するまで、とうとうくれなかった。
 コタラジャから本部のセチレイまで400キロメートルあるので、とても3号甲無線機の能力では届かないだろうから、強力な2号乙無線機と替えようという話もあったそうだが、私達は今まで不自由なく交信していたので、何とも思わなかった。
 道路の向こうに兵補の兵舎があった、兵補というのは、日本軍の補充的な役割をする目的で、作られたものだったらしいが、日本の陸軍教導学校みたいな訓練所で、毎日、インドネシアの若者達が元気一杯軍事訓練に励んでいた。後では、インドネシア独立軍の基幹部隊になった。

コタラジャ 6

2006-07-03 19:16:32 | Weblog
 道路との境は、一寸した垣根のようなものだったので、外出する時は、衛門から出ずに垣根の破れている所から、チョイと通りに出ていた者を、隣の宿舎の将校から見つけられて、皮肉を言われたから、「今後は必ず衛門から出るように」と、分隊長は注意した。
 ある時、2人連れで外出した。衛門から出て、しばらく行くとロータリーがあって、5本の道路がそこから走り、その1本が通信所の横の道路につながっていた。
 町をぐるりと歩いていたら、海軍の人が、起重機で50cm角の長さ3メートルぐらいの厳重な木箱を降ろしていた。砲弾か、魚雷かと思って足早に立ち去った。
 ある家の窓から、若い女が5,6人顔を出して、
 「マスター、マスター」等と口々に言って手招きをしていた。上等兵に聞いたら【ピーヤ】だった。
 ある時、重い鈍いような音が、何回か続いて響き渡った。すると、大通りを野砲のようなものを引いた軍用トラックが、全速力で海岸のほうに走って行った。聞けば、敵の艦砲射撃を受けたのだそうだ。今頃走って行っても、間尺に合わないだろうと話し合ったが、しばらくして帰ってきた。
 この頃から、情勢が何かひっ迫したものが感じられるようになった。

コタラジャ 5

2006-07-02 10:10:07 | Weblog
 藤森分隊長が留守の時、
 「あの鳥を始末しようか」
と渡辺上等兵と大島上等兵が言った。そしてはいなくなった。
 「どうしたんですか?」と二人に聞いたら、
 「やったよ。お前これ、料理しろ」
と、毛をむしった裸の鷹を私に渡した。《えらいことになったなあ…》 私は観念して、その痩せた鷹をさばいた。2人はそれを持って調理場に消えた。
 夕食のおかずの煮込みの中に肉の細切れが入っていた。2,3人の者は、
 「あれだろう」といって食い残したが、他の者は食った。やはり、痩せていたので硬くて美味しくなかった。
 「斉藤、鷹が化けて出てくるぞ」 なんてからかわれたが、
 「殺したのは、俺じゃないぞ」と言ってやった。
 藤森分隊長は黙って食っていた。
 鷹を征伐して、やれやれと思っていたら、2週間ぐらいしてから、今度はモンキー(猿)を連れて来た。
 「どうしたんですか?」と聞くと、
 隣の将校が飼っていたが、今度移駐することになり、手放すことになって、飼い主を探していたから、貰ってきたよ」と答えた。
 そのモンキーはポケットに入るくらい小さくて、黒褐色で尾は長く、一寸可愛かった。私達は《又、始まった》と思ったが、猿ならどうにかなるだろうと別に反対はしなかった。
 このモンキーは、それから通信所の内と外を駆け回っていたずらをした。
 飯時、モンキーには別の食器に取ってやったが、それは食べずに、テーブルの上の配膳した飯や、皿の料理に、チョッと出てきて手をつけた。
 「汚い、この野郎!」
と蝿叩きなんか持って追い回すと、キャッキャッと言いながら逃げ回った。追い方が悪いと、食器の上を走られたりしたが、数人掛けで追い回すと居なくなった。
すると分隊長は1人で一生懸命捜して連れて来た。
 又、元の飼い主のいた宿舎から、
 「猿が来て困る、お前の所のものか」などと文句を言われたこともあったが、分隊長はよく辛抱して、可愛がっていた。

コタラジャ 4

2006-07-01 22:29:36 | Weblog
 マンゴは淡い黄緑色の内地の中型の桃ぐらいで、肉は一寸硬く、繊維が多かったが、甘酸っぱくて、独特の匂いがした。1日、1個にしたので通信所に長い間あったが、終いには柔らかくなってしまった。それから誰もマンゴを欲しがらなくなった。
 又、ある時、現地人がトカゲの長さ1mぐらいのを、棒に縛りつけ、2人で担いで通った。藤森分隊長はそれを見つけて、買うと言いはじめた。私達は「飼うのは良いけれど、餌はどうしますか?、又、場所はどうしますか?」と口々に反対したので、とうとう諦めた。
 次はを連れてきた。多分、外出した時、見つけてきたんだと思うが、食堂の外にTの字型の止まり木を立てて、それに止まらせた。
 「鷹か?、鷲の子か?」と私達は言い合ったが、鷹だろう…になり、仕方がないので、みんなで飼うことにした。
 目の鋭い、くちばしの曲がった、黒褐色のその鳥は、蛙や虫を捕ってきて、食べさせてやっても、攻撃的で、近寄ると目を光らせ、くちばしを開け、肩をそびやかして、威嚇した。そして、何時まで経っても馴れなかった。