「私の従軍記」 子供たちへ

平成元年父の誕生日に贈ってくれた本、応召されて帰還するまでの4年間の従軍記を今感謝を込めてブログに載せてみたいと思います

兵士の死

2006-07-21 22:32:03 | Weblog
ある日、裏の一家が突然居なくなった。何処かに引っ越したんだろうと話し合ったが、外出した者が町で見かけたとも言っていた。
 そして、2,3日してコタラジャの司令部がここに移って来た。私達は裏の一家の移転も、このことと関係があるのだろうと想像した。それから町が、騒がしくなってきた。そして物価がどんどん上がった。
 今まで50銭位だったコーヒーが5円近くになって、2杯飲めば俸給がなくなることになり、バナナも高くなって一寸買えなくなってしまった。
 コタラジャから司令部が移動する事は、敵さんには情報が流れていたと見え、短波ラジオで
 「お前達がタケゴンの山の中に逃げても無駄だ。きっとそのうちに、やっつけてやるからな」と放送をしていたという話を後で聞いた。
 ある日、工兵隊か、司令部のものか知らないが、兵隊が1人死んだので、その火葬が明日あるから、その時間には全員黙祷をするようにとの通達があった。
 その日、私は監視硝当番だったが、その場所から5,6百メートル位離れた高い所に立っていた。午後になってトラックや兵隊が集まって来て、丘の上に材木がイケタ状に2メートル位の高さに積み重ねられた。
 4時頃だったか、ラッパの吹奏と共に火がつけられた。材木には石油か何か、かけてあったと見えて赤い炎が燃え上がった私はジーッと頭を垂れた。
 ラッパの音は周りの山々に微かに物悲しくこだまして吸い込まれるように消えていった。やがて夕日は辺りを赤々と染めて沈み、火勢も衰えて周りをほの明るくしていたが、やがて消えて、黒闇に包まれていった。その日は私達の心は重苦しかった。
 思えば遠く祖国を離れて、異郷の地で果てるとは、戦場にある身としては覚悟の上ではあるが、戦友に見とられ、丁重に荼毘に付されるのは以って冥すべではなかろうか。