「私の従軍記」 子供たちへ

平成元年父の誕生日に贈ってくれた本、応召されて帰還するまでの4年間の従軍記を今感謝を込めてブログに載せてみたいと思います

マラリア

2006-07-18 22:28:08 | Weblog
 私は中隊長がタケゴンに泊まったとき、蚊帳からハミ出されて、南方に来て初めてマラリヤにかかった。中隊長が帰って2,3日してから、熱が出て身体が寒くなって、震えが来た。分隊長に言うと【マラリヤだ】という。いつも予防薬のキニーネを飲んでいたが、近頃、薬が無くて飲まなかったので、早速やられたらしい。
 「寝ておれ」と言うのでベッドに寝ていると、熱がドンドン上がって、42度位になり、寒さもひどくなって、毛布を2枚、3枚と重ねてみたが、ガタガタ震えた。その時、中西、小川の2人が冷たい水をバケツに汲んできて、タオルを湿し、額に、取替え、取替え一晩中冷やしてくれた。
 目を覚ますと、「大丈夫ですか?」と声を掛けてくれた。
 「ああ、大丈夫だ。済まないな、どうも有難う」 そして私は又眠った。
 1日して熱が下がった。そして1日おいて通信当番、その次又、熱が出た。その時も又、2人のお世話になった。
 マラリヤの発熱と通信勤務が代わりばんこだったので、仕事は休まなかったが、頭がはっきりしなかった。
 中西は電気会社に勤めていたとかだった。
 「中西、メートル器の回らない方法があるってなあ」と誰かが聞いた。
 「ハア、あることはあります」
 「どうすれば回らんか教えろよ」「ハア、それは…。」と教えなかった。
 現地人がよくマラリヤの薬を貰いに来たが、後では無くなってしまった。
 ある日、現地人が少し酔ったようにして来た。
 「どうしたんだ」と聞くと
 「マラリヤが出そうな時には、酒を飲む。そして熱が出るより先に、寝てしまうのが一番よい。自分もマラリヤが出そうだから、少し飲んでみた。」と言ったが、本当かなーとみんな思った。

タケゴン 12

2006-07-17 22:32:19 | Weblog
 ある日、中西と小川一等兵が並んで変な顔をして立っていた。
 「どうしたんだ?」私は傍に寄って聞いた。
 「渡辺上等兵にビンタをとられました」
 「ビンタ?どうしてだ」
 「何か言われましたが、よく分かりません」
 「そうか、私が後で聞いておくから、自分の仕事をしとけよ」
 「ハイッ」と2人は室内に入った。
 私は渡辺上等兵を見つけると聞いた。
 「渡辺上等兵殿、中西、小川はどうしたんでありますか」
 「ウンあいつ等はなあ、初年兵の癖に、生意気だからビンタをとってやった。」
 この上等兵は、痩せ型の背は160センチくらい、赤ら顔で、目がギョロリとした人で、召集兵らしく、東北弁丸出しで言った。
 「斉藤、お前も知っているだろう、分隊長が洗濯しているのを。あいつ等は知らぬ振りしている。生意気なやつらだ」
とまだ怒っていた。2人は上等兵から東北弁で怒鳴られ、いきなりビンタをとられたので、面食らったらしい。私は後で2人に
 「分隊長が洗濯しているのを、知らん顔をしていたと言っていたぞ。今度からやってやれよ」と注意した。
 「分隊長には、私がやりますと言ったんですけど、《いや、いいから、いいから》と言ってやらしてくれなかったもんで、つい…」
 「そうか、しかし渡辺上等兵殿がああ言ったから、もう一度分隊長に頼んでみろ。させなきゃ、それでいい」と私は言った。
 その日も分隊長が洗濯に出かけようとしたら、2人が
 「私達がやります」と言って走って来て、洗濯物を取ろうとしたが、分隊長は
 「いいんだ、俺がやるよ。いいんだ、いいんだ」と、とうとう渡さず洗濯場に行った。2人は後からついて行ったが、やがて引き帰して来た。それからは、渡辺上等兵は何も言わなかった。
 中西と小川は内地から来た現役兵で静岡県の磐田の原隊からの転属らしかった。若くて純情な初年兵であった。


 

タケゴン 11

2006-07-16 17:12:43 | Weblog
 私達はタケゴンに移ってから、裏の道を通ってマンデー(水浴)場に通った。木製で湖の方に突き出た屋根付きの立派なものであったが、そのうち身体中に何かポツポツした皮膚病らしきものが出来始めた。このタウル湖は綺麗に澄んだ水だったが、時折、人糞の硬いのが流れ着く事があった。現地人はそれを洗面器見たいな桶で押しやって流し、マンデーをしていたが、私達は中止して帰っていた。
 皮膚病はきっとマンデーの水が悪いのだということで、ドラム缶を切ったので釜を作って、お湯を沸かして入浴することにしたら、何時とはなしに治ってしまった。
 皮膚病といえば、私のタムシは、タケゴンに来てもまだ治らなかった。工兵隊の医務室から、サルチル酸を貰ってきて塗っていたが効果は無かった。
 そしてある日、2人で外出して、タケゴン病院に行った。ここはオランダ人の保養地だっただけに、綺麗な立派な病院があった。この病院には週一回、陸軍の軍医が来て、診察していたが、評判は大したもので、その2,3日前から、泊り込みで各地から、現地人が押しかけ、【ドクターバグス】と神様に近い信頼を受けているという。
 白衣を着た、医師見習いみたいな若い現地人に、一寸タムシの話をして、何か効く薬はないかと言ってみた。するとその男は
 「マスター、一寸来い」と言って隣室に連れて行き、アンプルを見せて、
 「これは非常に良い薬だ。注射するか?これを注射すると酔ったようになるがどうだ?」と言う。
 「分かった。効くなら注射してくれ」
男はそのアンプルの20cc位の透明な液を腕の静脈に静かに注射した。  
 2,3秒すると身体中がカーッと熱くなってきた。注射筒の液が終いになって、男は一寸微笑して、針を抜いた。
 「酔ったようだろう」
 「そうだ」と答えた。
 効果はてきめんだった。2,3日したら枯れ状となり、1週間もしないうちに、綺麗に治ってしまった。満州、牡丹江電信第6連隊から連れて来たタムシは1年位かかって、ようやく治癒したことになった。彼が注射してくれたのはカルシウムで、入隊によって、食生活が変わって、カルシウムが不足したのだろう。
 現地人は病院の診察室に入るのにサンダルを脱いで、裸足になったのか、あちこちで、昔の名残か、脱いであった。又、白人から物を受け取る時は、片足をひざまづいていたと、現地人は言っていた。偉い人からの場合には、まだその習慣を当時では見かけた。

タケゴン 10

2006-07-15 22:30:27 | Weblog
 ある時、外出で刑務所(じつはその時まで、刑務所とは知らなかった)の傍を通ったら、30メートルくらい向こうの畑を監視されながらチャンコール(耕す)していた5,6人の現地人が、私達を見て、
 「マスター」「マスター」と言って手を振った。私達も「やー、やー」と答えて手を振ってやったが、これらは囚人達で後で警察から、「囚人にあんな事をしてもらっては困る」と、注意されたそうだが、何か政治犯とかと言う話もあった。が、私達はてっきりコーヒー店に居た者達で、捕まって、労役させられているのだろうくらいに考えて、気軽に応えたまでであったが、政治犯の囚人が日本の兵隊と仲良く口をきくなんて困った図であったろう。
 防空監視硝はこの工兵隊の外の小高い丘の上に15メートル位の木造の櫓が建ててあった。元、オランダ軍が使用していたらしい。その下に、【タケゴンホテル】があった。一度ここに寄ってコーヒーをご馳走になったが、ここの女主人は島原の人であった。私も九州だ、とだけ言ったが、スマトラの山奥のホテルに島原生まれの人が女主人として暮らして居られたとは、夢想だにしなかったが、その人は物静かな何か憂いを含んだ顔つきだった。色々な事情があったと思ったが、とうとう何も聞かずじまいだった。が、時折、無事にして居られただろうかと、気にかかる事がある。

タケゴン 9

2006-07-14 20:36:10 | Weblog
 通信所の道を隔てた真裏の所に、小じんまりした家があって、そこにも若い綺麗な女の子がいた。家族は母親と娘と青年であったが、青年は外に仕事に行くのか、余り見かけなかった。
 その家から少し離れたところに、その家のマンデー(水浴)場があったので、その娘が洗面器を持って現れると、もしかしたら見えるかも知れないと兵隊達は目をサラのようにしてみていた。
 現地人のマンデーは絶対、肌を見せない。着ていたまま、ザンブリと水に浸かる。そして洗面器で頭から水をかける。石鹸をつけて洗い、又水をかぶる。そして洗い終わったら、着たまま上がって、持って来た服(サロン)を輪にした中に入って、両手で肩のところまで持ち上げてから、濡れたサロンを脱ぎ捨てると、足元に落ちる。それを洗濯して帰るという順序だから、私達の期待に反して、絶対見えなかった。
 その女の子の名前は、ピンシェイといったが、インドネシア語では美しいということらしかった。後で分かったが、この家はオランダ兵の下士官の宿舎で、奥さんが現地人で、夫は今度の戦争で戦死したそうだ。言うなれば、私達は敵さん。この一家が良い顔をしないのは無理は無かったが、最初はそれを知らなかったので、無表情で肥えたお袋さんを見て、なんて無愛想な奴だろうと思った。
 それでも私達は、飯を炊きすぎた時やら、副食を作りすぎた時には
 「食わないか」
と言って渡していたし、又、下の方、ビルンなんかに公用で行ったものは椰子の実なんか買ってきて呉れていた。
 外出ではよくコーヒーを飲みに行った。店はいつも決まっていたが、1杯50銭くらいで飲ませてくれた。苦味が利いて、それに現地産の黒砂糖の甘味とアク味が混じって旨かった。ある時、その店で現地人とカタコトで、話しながら飲んでいると、サッと店の奥に隠れた。
 何だろうと思って、入り口を見るとポリスが現れ、店内を見回してから立ち去って行ったが、しばらくしてから先刻の男が出てきた。
 「どうしたんだ?」
3日続けて仕事をせず、コーヒー店に居ると、ポリスに捕まって刑務所に入れられ、強制労働をさせられるのだ。俺は今日で3日目だから危ないんだ。」
 それで隠れた訳が分かったが、《面白い制度もあるものだ》と思った。

タケゴン 8 (食べ物 2)

2006-07-13 23:17:35 | Weblog
 私達は外出で、2,3人連れだって市場(バザール)を見に行った。大体は《現地人たちの多く集まっている所には、不測の事故を防止する意味から、なるべく立ち入らないように》、という趣旨の指令がされていた。
 南国特産の果物、椰子油、魚、噛み煙草など等。それらが発散する臭いに圧倒されて、奥まで入るのには、4,5回はかかった。
 だんだん奥まで入って見ると、物資は豊富であった。米、魚、野菜類など綺麗なのが一ぱいあった。その中で、洋服屋が手回しミシンで、客の注文の服を縫っていたのと、タイプライターで代書業をやっているのが珍しかった。鶏は羽を交差させ、足を縛ったのをブラ下げて歩いていた。
 執政官事務所から、子供の頭くらいの大きな黄緑色の果物を貰ってきて、包丁で一寸切ってみると、ザボンだった。私が皮と渋皮を剥いだら、握り拳くらいになってしまった。南方スマトラにザボンがあることが分かった。
 又、「サオ」と言う名の黒褐色で鶏の卵より一寸小さい果物があった。若い時には表面にブツブツの小さい粟状の突起があって、中身は渋くて食えなかったが、熟してくると、熟した柿のような甘さになって、何となく精力がつくような気がしたが、現地人もそんな事を言っていたので、私達はサオに効くのだろう、よくまあ、サオとは名付けたものだと笑った。
 又、茄子に似た紫色の、太さも丸茄子状で、直径4センチくらいの実が、高さ3メートルくらいの木に生っていた。食べると紫色の汁で口が染まった。あまり美味しいというほどでもなかった。
 又、赤い色をして、周りには2ミリくらいのひげがある実もあったし、又、白に赤の縁取りした実で噛めば麩か何かのようにシャプ、シャプして味も何にもないものもあった。
 ここはコーヒーの有名な産地である事を後で知った。現地人の話では、世界一旨いと自慢していた。いつかコーヒー園を見に行ったが、直径2センチ位の黒い、丸い粒がベルトコンベアーみたいなものの上を下の方に流れていた。麻袋からその流れ口にコーヒーの実を落としている現地人の女の子は、現地人とオランダ人の混血だそうだが、両方の良いところをとった美女だった。私と連れだったもう1人の兵隊は、その美女を見るのが目的だったらしい。

タケゴン 7 (食べ物 1)

2006-07-12 10:21:13 | Weblog
 その翌日、中隊長は訓辞をしてから次の予定地に出発して行った。土産だと言って、モンキーバナナを枝ごと一本くれた。まだ青く硬かったので、壁に釘を打って熟すまで下げておく事にした。
 そして一週間位して、黄色になってきたのを指で、少し軟らかいのを、順次、枝に付けたまま、見えない裏側から剥いで、中身だけ出して食った。それから数日すると、房は全部ついているが、中身は全部空になっていた。それで私は空を確認してからゴミ焼き場に捨てた。みんな、そうして食べていたのだろう。だれも俺が食ったとは言わなかった。
 モンキーバナナは小さいが甘味が強かった。また、バナナで直径5センチ、長さ30センチくらいで、さつま芋程度の硬さの物には、私達は《馬のバナナ》と言っていたが家畜の飼料にするのだそうで、、一本食えば、《もう沢山》と言う代物もあった。
 ある日、外出した2人が直径30センチ位、長さ50センチ位の表面にイボイボのいっぱいある黄褐色のものを棒で担いで帰って来た。聞くと、非常に美味しいものだそうだという。貰ってきたか、買ってきたか尋ねなかったが、如何にして食ってよいか分からぬ。今度は村の若者を連れて来て、料理をしてくれと頼んだ。
 「これの名前は」
 「ナンカ」この果物の名はナンカである。大きな楠木みたいな木の幹の横原のところに、丁度大きな冬瓜でも縛り付けたようにして、生っているのだ。
 男は包丁(パラン、現地人のナタみたいな刃物)で輪切りにして、又、これを切ってくれた。中心から放射線状に筋が走って、黄白色のネバネバした肉質があった。口に入れると美味しかった。肉質の中に栗の実大の白い硬い種子があった。その日は半分位しか食わなかった。
 翌日、その男がやってきて、
 「種子はどうしたか?」と聞くので
 「ここに捨ててある」と答えると
 「火を燃やせ」と言う。そうすると、その種子を焼いた。丁度、栗でも焼くようにしてから、
 「これを食ってみろ」と言う。厚いのを恐る恐る皮をむいて食うと、栗でも食うように美味しかった。この果物は皮以外は捨てるところは無かった。
 これには2回位しかお目にかかれなかった。

タケゴン 6

2006-07-11 19:31:30 | Weblog
 ある時、宮原隊長が各分隊を回り、タケゴンに到着する日時を知らせてきた。
その日は舎内の整頓、整理を早々に終わり、待てども待てどもやって来ない。夜になっても未だこない。
 「今日は来ないのだろう」と非番の者はベッドに入ってウトウトしていた。すると、遠くから
 「藤森軍曹、宮原が来たゾー!」
と、大声で怒鳴ってこちらに来る者がいる。
 「分隊長殿、中隊長殿が来られましたッ」
私は大急ぎで分隊長を起こした。全員起床、整列、ガタンと戸を開けて、中隊長が入ってきた。
 「わしが来ると分かっているのに、なぜ出迎えなかったかッ」
 「ハイッ」
と分隊長は敬礼をした。ほの暗い電灯の下で見ると、左手でモンキーを抱いて、妙な格好であった。
 宿舎では蚊帳を吊っていたが、俄かに2人増えたので私は蚊帳のギリギリのべッドに寝る羽目になった。

タケゴン 5

2006-07-10 22:32:07 | Weblog
 タケゴンは高い所だから、寒いだろうと毛布一枚、加給されていたが、一度、霜の降りた晩にはみんな「寒い、寒い」と言ってベッドの中にもぐり込んで寝たことがあった。
 コタラジャから分隊長が連れて来たモンキーは、相変わらず悪戯をした。通信当番の時、サア受信と鉛筆を握ると、芯が折れている。4,5本あったのが全部折れている。慌てて別の所から捜して、ようやく受信が終る。どうしたんだろうと小刀で削り直して、鉛筆立てに立てると、モンキーの野郎、チョコ、チョコと走ってきて、鉛筆を手に取り、芯を口にくわえて、カツンと折っている。
 「この野郎」と追いかけると「キャッ」と言ってあちこち逃げ回る。それから鉛筆はモンキーの手の届かない所に置くことにした。
 ある時、モンキーが草についた青虫を食っていた。猿が青虫を食う事を初めて知った。
 夜はベッドの中に入ってきて寝ていたが、よくオネショをした。気付いて「この野郎」と頭を叩くと「キャッ」と言って逃げた。こんな事が続くので、後では使い古しのタオルなんかでオシメをさせて私と一緒に寝た。それからは余り粗相はしなくなった。
 悪さをしてからは、みんなで追いかけ回すと、終いには疲れて立ち往生をする。そこで捕まえて、長い尻尾を両手で挟んでクルクルッと回してポンと放すと、地に両手をついて、ヨロヨロとへたばった。モンキーも目を回すものだとみんな笑った。
 こんな事は分隊長が外出した時、よくやった。すると分隊長が帰って来ると、走って行って飛びつき抱かれながら、分隊長の耳のところに口をつけて、何か言うようなしぐさをした。
 「あいつ、言いつけてやがる」と私達は陰で笑った。

タケゴン 4

2006-07-09 10:43:38 | Weblog
 ここに移ってから、フェーティング(どうも、デリンジャー現象のことのようですが)とに悩まされた。交信していると、次第に電波が弱くなって、終いには全然聞こえなくなる。ボリュームを上げてみても駄目。そしてある時間が経つと、次第にはっきり聞こえるようになってくる。これがフェーティングで天界の現象で、どうにも仕様がなかった。
 雷にも弱った。受信の最中にガリガリッとやられると、通常4,5字は飛んでしまうので、またサラ(再送信)を頼む訳にもいかぬときには、暗号の前後の文章を勘案、翻訳して繋いでいったものだ。軽い連絡文ならこれでもよかったが、重要交信の時は弱った。
 通信所には電気がきていなかったので、2,3日はローソクと椰子油を燃やして明かり取りしていたが、工兵隊のはからいで50メートル位、電線を張って電灯をつけてくれた。
 ここのは石油エンジンによる発電だったので、夕方から発動機をドスン、ドスンと回して、12時頃まで送電していた。一度見に行ったら、大きな横型のエンジンが据わっていた。
 エンジンの調子が悪いと、電灯がフワー、フワーと明るくなったり、暗くなったりしたが、総じて電圧が低く、赤味をおびた光であった。後で、マッチが足りなくなった時、
 「中西、お前、電気から何とかしろ」と古参兵から言われて、中西一等兵は、細い針金を捜して来て、ヒーターみたいなのを作った。電灯線につなぐと、3,4秒経つと赤くなってきて、結構、煙草の火は着いた。
 しかし、間もなく工兵隊から、「どこか電気を無駄使いしているところがある。」と注意されて、「さてはバレたか」と使うのを止めた。