倭国、大和国とヘブライ王国

ヤマトとはヘブライ王国の神・ヤハウエの民を意味するヘブライ語‘ヤァ・ウマトゥ’が変化したものであろう

第2回古事記編集会議

2007-04-08 10:57:59 | 歴史
 第一回の編集会議で出来たコンセプトを下に、編集委員が集まり具体的な物語の核子を作ることになった。
先ず倭国の国生みに至る天地創造に関しては、旧約聖書(以後聖書と略す)の「始めに神、天と地を創造(つくり)たまえり」を引用しする事とし、「天地始めて発(ひら)けし時・・・」と言う言葉で始める事に決した。聖書はそのあと「神が諸々の動物や植物を作った」としているので、これを多少アレンジし植物や土、泥などを神格化する案が出され、検討を重ね10柱の神を作った。参考に岩波文庫の古事記の註訳に記されている神代七代の神々が、何を神格化した神なのかを記しておく。国之常立神=国土の神、宇比地邇神、妹須比智邇神=泥、砂の神、角杙神=杙の神か?、その他居所の神、人体と意識の神などなど。最後に天武天皇より出された「国生みの神の名はイザヤの名を参考にせよ」と言う話を基にし、聖書のアダムとイブにあたる神の名を、「イザナギとイザナミとしては如何」と言う名案が出され満場一致で採用することに決まった。
イザナギ・イザナミが倭国を産む話については「ユダヤの風習を取り入れてはどうか」との提案があった。その風習とは「まず新郎新婦は天蓋の下に入る。それから花婿がそこに柱のように立ち、彼の周りを花嫁が廻る。そして『アナ・ニャサ』と言って結婚する。」と言う話であった。ヘブライ語で「アナ・ニャサ」とは「私は結婚する」と言う意味になる。この話はノーマン・マクレオド著・久保有政氏訳の「日本固有文明の謎はユダヤで解ける」からの引用である。
古事記の編集者はこの話を取り入れることを決め、古事記の物語は次のように成った。イザナギが「天の柱を先の如く往き廻りき。ここにイザナギ先に『あなにやし、えおとめを』と言い、後にイザナミが『あなにやし、えおとこを』と言いき。」となった。編集者達は上手くアレンジ出来た事に満足した。
岩波文庫の古事記の注釈には、「あなにやし」と言う言葉について次のように解説している。「‘あなに’は‘あれまぁ’、‘や’と‘し’は感動の助動詞、‘えおとこ’は良い男の意、‘えおとこを’の‘を’は感動の助詞」と説明している。
私は岩波文庫の古事記の注釈には無理がありすぎると思う。私の持っている古語辞典にはそれらしき言葉が載っていないので、‘あなに’が‘あれまぁ’ですと言われれば、古語を知らぬ身にとっては「ああソウですか」と頷くしかない。更に`や'、`し'が感動の助動詞で、‘を’は感動の助詞ですと言われても「そんなものですか」と、首を傾げながら権威ある岩波文庫に従わざるを得ない。
私の考えを述べたい。広辞苑で助動詞を引くと「常に他の語の後について使われる語の内、活用する語。例・・男ありけりの‘けり’、花散りきの‘き’、知らないの`ない'」と出ている。助詞は「常に他の語の後に付いて使われる語のうち、活用しない語。例・・梅が香の`が'、君だけ行けの`だけ'、水こそ流れるの`こそ'、花咲けばの`ば'、行くぞの`ぞ'、花よ咲けの`よ'の類」と載っている。
素人がクドクド言うのもはばかれるが助動詞が二つ繋がり、更にその後に助詞が続くというのは、同じ日本語であれば古語とは言え違和感がある。特に助詞は二つの言葉を繋ぐのが本位であれば、言葉の末尾に付くのはなんとも可笑しいと思うがどうだろう。更に勢いで言わせて貰えば岩波文庫は「あなに」は「あれまぁ」と注釈している。「あれまぁ」は感動詞であろう。感動詞の後に感動の助動詞と感動の助詞が続いている事になる。広辞苑で感動詞を引くと「感動や応答・呼び掛けを表わす語。単独で文となりえる。・・・他の語に修飾されることもない」とある。このまま解釈すれば「あなに」の後ろに感動の助動詞はいらない事がわかる。
素人が如何に吼えても仕方はないが、以上のような素人学者の解釈を基に、心の中で「あなにやし」は「ヘブライ語だな」と思っている。非難中傷を覚悟して言えば、学者さん達は「‘あなにやし’がヘブライ語である」と言う事は出来ない。なんとしても大和言葉として解釈するしかないため、仕方なく一字一字に分解し、考察するしかなかったと推察している。御同情申し上げる。
「あなにやし、えをとめを」とは「美しい乙女よ、私と結婚しようよ」であろう。
第2回編集会議はイザナギとイザナミが結婚し、国を生むところまでで時間が来た。次回のアジェンダは「国生み」である。

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