このブログで昨年の11月9日に同じ題で投稿している。その時の内容は「平安時代の昔、時の朝廷の主催する日本書紀の講読会の席で『‘日本’‘倭'‘大和'と書いて何故‘ヤマト'と読ませるのか』と言う疑問について、質疑されたが的を得た回答は出なかった」と言う話だった。もう一度その時の識者の答えを紹介しておく。
一つは;‘山跡’と解釈するべきで、天地が分かれ、泥の状態でまだ乾かぬ時、人は山に住んで往来していたので、足跡が多かったから‘山跡'と言う。
一つは;住居のない時代に山に留まっていたから、その意味を漢字にして‘山戸'と言う。
この答えでは平安の識者も納得せず、「諸国の人も同じなのに何故(朝廷のあるところ)山戸と言うのか?」と反論している。現代の我々がこの答えを聞いても同じ反応をするのではないだろうか。
最近上田正昭氏の著書「大和朝廷」に‘ヤマト'という呼び名に関する記載があったので紹介したい。
「奈良意外にも‘ヤマト'は沢山見られる。九州の山門に見られるように‘ヤマト'の由来は(1)山のあるところ・山の間、(2)山の麓、(3)山の入り口、山戸、(4)山の外側などその多くは山に密接なつながりを持つ。・・・しかし畿内の大和の原義はどうも山の入り口とか、山の外側とか言う意味ではなさそうである。」
ここまでの記述に私の胸はときめいた。私の持論、‘ヤマト'の語源は「ヘブライ語の『ヤァ・ウマトゥ』ーヤハウエの神の民から来ている・・・大和一族はイスラエルの失われた支族の末裔」と言う説に繋がるのかと言う期待が湧いてきたからだ。
残念ながら期待は裏切られる。話は次のように展開される。
「奈良時代までの仮名遣いから甲類と乙類に分けられる。甲類での「ト」は外、戸、門、などが用いられる。山の入り口、外側の場合は甲類が用いられる。乙類は跡、登、等、苔、常などが当てられる。古事記、日本書紀の‘ヤマト'に対する当て字は全て乙類であるので、機内の‘ヤマト'は山の入り口や外側にあるのではなく山に囲まれたところ、山の間、山の麓などと言うところにあることを有力に示唆するものである。・・・ヤマトの名にふさわしいところである。」
この説明で納得する読者がどれほどいるだろうか。先の甲類の説明にも「山の間、山の麓」が出てきており、話の辻褄が合わず、奈良の盆地を何故‘ヤマト'と読んだかについて説得力ある説とは言い難い。
地形からその名がつけられているとすれば、古事記や日本書紀で何故それらしい字を当てなかったのであろうか。ちなみに古事記では「山跡、夜麻登」が当てられ、日本書紀では更にその当て字は広がり「野麻登、夜麻苔、椰摩等、椰磨等」と言う字が当てられている。更に言えば万葉集には「山跡、山常、也麻等、夜麻登、夜末等、夜万登、八間跡」としている。
これ等から言える事は最初に紹介した故事のように、この時代の人々が奈良の盆地の地名‘ヤマト'が、どうしてそう呼ばれていたかのコンセンサスができていなかったことを物語っている。これ等の書籍に名を留める他の地名は殆どが統一されており(例外もあるが)、一つの地名に十以上の種類の漢字を当てられた地名は他にない。神々の名前には‘倭’を当て‘ヤマト'と読ませている例が多いが、これは‘倭'が奈良の地名ではなく広く倭国を意味しているのであって、奈良の地名に当てることまでは徹底されていなかった事を意味しているのではないだろうか。その結果、音のヤマトは行き渡っていたが、当てる漢字は定まっていなかったため、皆思い思いに使っていたため、このように多くの‘ヤマト'を生んだのであろう。
一つは;‘山跡’と解釈するべきで、天地が分かれ、泥の状態でまだ乾かぬ時、人は山に住んで往来していたので、足跡が多かったから‘山跡'と言う。
一つは;住居のない時代に山に留まっていたから、その意味を漢字にして‘山戸'と言う。
この答えでは平安の識者も納得せず、「諸国の人も同じなのに何故(朝廷のあるところ)山戸と言うのか?」と反論している。現代の我々がこの答えを聞いても同じ反応をするのではないだろうか。
最近上田正昭氏の著書「大和朝廷」に‘ヤマト'という呼び名に関する記載があったので紹介したい。
「奈良意外にも‘ヤマト'は沢山見られる。九州の山門に見られるように‘ヤマト'の由来は(1)山のあるところ・山の間、(2)山の麓、(3)山の入り口、山戸、(4)山の外側などその多くは山に密接なつながりを持つ。・・・しかし畿内の大和の原義はどうも山の入り口とか、山の外側とか言う意味ではなさそうである。」
ここまでの記述に私の胸はときめいた。私の持論、‘ヤマト'の語源は「ヘブライ語の『ヤァ・ウマトゥ』ーヤハウエの神の民から来ている・・・大和一族はイスラエルの失われた支族の末裔」と言う説に繋がるのかと言う期待が湧いてきたからだ。
残念ながら期待は裏切られる。話は次のように展開される。
「奈良時代までの仮名遣いから甲類と乙類に分けられる。甲類での「ト」は外、戸、門、などが用いられる。山の入り口、外側の場合は甲類が用いられる。乙類は跡、登、等、苔、常などが当てられる。古事記、日本書紀の‘ヤマト'に対する当て字は全て乙類であるので、機内の‘ヤマト'は山の入り口や外側にあるのではなく山に囲まれたところ、山の間、山の麓などと言うところにあることを有力に示唆するものである。・・・ヤマトの名にふさわしいところである。」
この説明で納得する読者がどれほどいるだろうか。先の甲類の説明にも「山の間、山の麓」が出てきており、話の辻褄が合わず、奈良の盆地を何故‘ヤマト'と読んだかについて説得力ある説とは言い難い。
地形からその名がつけられているとすれば、古事記や日本書紀で何故それらしい字を当てなかったのであろうか。ちなみに古事記では「山跡、夜麻登」が当てられ、日本書紀では更にその当て字は広がり「野麻登、夜麻苔、椰摩等、椰磨等」と言う字が当てられている。更に言えば万葉集には「山跡、山常、也麻等、夜麻登、夜末等、夜万登、八間跡」としている。
これ等から言える事は最初に紹介した故事のように、この時代の人々が奈良の盆地の地名‘ヤマト'が、どうしてそう呼ばれていたかのコンセンサスができていなかったことを物語っている。これ等の書籍に名を留める他の地名は殆どが統一されており(例外もあるが)、一つの地名に十以上の種類の漢字を当てられた地名は他にない。神々の名前には‘倭’を当て‘ヤマト'と読ませている例が多いが、これは‘倭'が奈良の地名ではなく広く倭国を意味しているのであって、奈良の地名に当てることまでは徹底されていなかった事を意味しているのではないだろうか。その結果、音のヤマトは行き渡っていたが、当てる漢字は定まっていなかったため、皆思い思いに使っていたため、このように多くの‘ヤマト'を生んだのであろう。