倭国、大和国とヘブライ王国

ヤマトとはヘブライ王国の神・ヤハウエの民を意味するヘブライ語‘ヤァ・ウマトゥ’が変化したものであろう

出雲大社

2006-04-11 23:32:07 | 歴史
 大国主命は天孫族に破れ、出雲王国を譲った。しかし無条件降伏ではなかった。自分を祭る社を造る事を条件に出した。それも当時では想像を絶する壮大な社を要求した。近藤啓太郎氏の「古事記」の訳文をお借りして紹介する。
「・・・太柱深く地底の岩根を踏まえ、氷椽(ひぎ)高く高天原に届かんばかりの宮を造り、吾を祭れ。・・・さすれば百八十神、言代主神に従って必ず仕え、叛くことはあるまい」。
先にも記述した話をもう一度紹介したい。それはこの大国主命の要求の高天原に届かんばかりの‘太柱’の一部と思われる遺跡が数年前に出雲大社の境内から発掘された話だ。その‘太柱'は古代出雲大社の基礎と思われる物で、直径1メートル余の大木が3本束ねられて1本の柱となっていた。それらの束ねは古文書に従えば9ヶ所有ると見られる。ゼネコンの大林組が調査、検証した結果、この基礎から計算される大社の高さは少なくても48Mに達するという。古文書には最初の出雲大社は96M有ったとされる。当時この出雲大社が日本で一番大きな建造物で、次が奈良の大仏の東大寺、三番目が京都御所だったという。これを「雲太、和二、京三」と呼んでいたと言う話がある。その後何度か倒壊と再建を繰り返し、48Mから現在の24Mになったとされている。
敗軍の大将の為に何故こんな大きな社を造る必要があったのであろうか。世界を見ても破った敵将をこのように厚遇した例があるだろうか。殆どは一族郎党全て抹殺し、場合によっては国の全てを破壊するケースが多い。天孫族の大国主命に対する厚遇振りはは異常としか言いようが無い。
 これまで何度か書いてきたが大国主命の治める国は越の国から関東にも及び、徳の高い政治で倭国の民から深く愛されていた。それらは神無月の話(10月に全国の神が出雲に集まるため、出雲以外の国は神がいなくなった。出雲の国は逆に神が集まったことから神有月という)や、大黒様の逸話が全てを物語っている。
天孫族は出雲王国を破ったが、この出雲王国の地を納めていくには、大国主命を上手く扱わなければ、民が天孫族の政に従わないと考えたのではないだろうか。その一番解りやすい方法が、大きな社に大国主命を祭る事であったと考える。その大きな社も半端なものでは民が納得して付いて来ないと判断し、当時の建築技術の限界に挑戦したのが96M、或いは48Mの社となったのであろう。
この大国主命の処遇と似た話が近代にもある。それは太平洋戦争に勝ったアメリカ軍が日本の戦後処理において、天皇制を廃止する考えが大勢であった。しかし極東地区司令長官であったマッカーサー元帥は、日本国民がアメリカの占領軍に対して「天皇陛下万歳」の声の基、ゲリラ活動などで徹底抗戦する可能性を心配していた。そこで考え抜いて出した結論が、現人神の天皇制を止め、人間天皇としての天皇制を継続する事であった。大国主命の徳の大きさから出雲王国の反抗を心配して大きな社を造った天孫族と、天皇に対する日本国民の思いを考えて、天皇制を認めたアメリカ軍の対応は、共通する要因があったと考えられる。
またこれまでのテーマである「天孫族と出雲族は同じイスラエルの失われた支族であった」事も、要因の一つに成ったとも考えている。