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北へ南へ、東へ西へ

旅と山歩き・街歩きの記録です 今を語りながら過去も振り返って

移転ご挨拶

plalaからgooへ移転してほぼ修正が終わりジャンル・カテゴリーが設定出来ました。タグ付け法が見つからないので、県名・市町村名、東京都は区市町村名で、その他寺社・名所などは固有名詞でサイト内検索して下さい。 サイト内リンク先、アドレスがplalaのpubのままgooに変更していないのでリンク切れしていました。リンク箇所を探して変更するのはかなり時間がかかりそうです。

今年の紅葉ではないのですが 志賀高原:長野県

2008-10-11 14:52:32 | 山歩き

 そろそろ北の国、山の国から紅葉の便りが聞こえてきます。明日から連休ですが、野暮用多くて出かけられません。来週は、所用もあってやや遠くに出かけなければなりませんが、1日限りの休みですから、行動範囲が限られます。それでも帰路にどこかへ寄ることが出来れば、その上紅葉を期待して!
 今まで写真を整理してみて紅葉の風景は多くありましたが、10月下旬から11半ばにかけてが多いようです。もちろん東京は、もっと遅くなります。そこで未整理の写真の中から、紅葉を拾い出してみました。少し退色していましたが、9月末には、すでに紅葉ばかりか枯れ草の風景になっていたのは、志賀高原大沼池へのトレッキングの途中です。



 この時平成12年(2000)9月の終わり、熊ノ湯・硯川に車を止め、前山から四十八池に入っています。霧に霞む神秘的な小さな池塘群、来て良かったと思わず叫びたくなるような風景です。



 この沼大沼池かと思ったのですが背後に志賀山が聳えているので、渋池あたり帰り道だったようです。



 秋を訪ねて越後湯沢迄行きましたが紅葉はまだでしたので、峠越えで野沢温泉へ、そして急坂を上り詰めると奥志賀林道はすっかり秋でした。奥志賀林道途中は、スキーコースの急斜面が多く、岩菅山登山を除いてトレッキングコースが少ないので、車窓からの紅葉狩りをしながら蓮池経由で熊ノ湯まで来ました。大沼池だけなら、発哺温泉から丸池までの途中から、最短距離ではいることが出来ますが、点在する湖沼群は見ることは出来ません。ススキと紅葉と足下には落ち葉の絨毯、山の秋は一気にやってきます。

 

 さて来週は、どこへ行けば最良かよく考えねば!山の季節は、一週間でがらりと変わりますから!?!


山は秋 足下は崖でした 裏巻機渓谷:新潟県南魚沼市

2008-09-17 14:21:16 | 山歩き

 裏巻機渓谷不動の滝です。滝壺脇の岩の上にへばりついて写しています。近付くことも引くことも出来ません。9月14日朝日がまぶしい時間でした。



 巻機山へは、塩沢側の桜坂から2度登頂していますが、こちらの渓谷は初めてでした。黒岩峰、金城山などの前哨の山があり裏巻機渓谷へは直接行く道はなく、巻機山の山塊を大きく迂回した反対側六日市側で、桜坂のまさに裏になり、車で移動してもかなりの時間がかかります。五十沢キャンプ場にゲートがあり、五十沢を遡ったところ一帯を言いますが、急坂の細い車道を上り詰めた天竺の里からの上道トレッキングコースが一般的です。



 歩き出して沢を見下ろすと、上ってきた車道と遙か下の橋が見えます。



 遙か下に見える橋を渡る対岸の登山道を下の道と呼び、渓谷沿いを歩くことが出来ますが、途中上の道に合流するため、かなりの急坂登りになります。何しろ五十沢沿いに歩くと言っても上の道は、はるか高い崖の腹を削った細い道を辿るのです。右下端に道の一部が写っていますが、崖に張ったロープを掴まないと不安になる程の場所もありました。



 滝への下り道の入り口を逆に上ると、急登坂3~4時間で割引岳山頂です。割引岳、巻機山、牛ヶ岳の三山は頂上が繋がり多少のアップダウンで行き来できます。今回は滝への往復のみで、登頂はパスでした。何しろ山肌は険しい岩むき出しで、遊歩道に近い滝へのコースでさえ、崩れ落ちた沢を越えて行くのです。



 もう一つの夫婦滝も不達として、すっかり秋めいた道をブラリブラリ!?!しっかり岩を踏みしめ戻りました。

  

 滝を囲む崖上にスズメバチの巣があるのを先客が見つけました。カメラに納めて帰って確認したら、かなり大きな巣でした。



 秋の花でしょうか、道端にかなり咲いていましたが、相も変わらず花の名を覚えられません。確か・・・ですが・・・。

 


カワイイ!バスがいました 蔵王刈田岳

2008-08-01 13:58:33 | 山歩き

 昭和38年(1963)8月ですから蔵王ハイラインはまだ出来ていません。蔵王エコーライン刈田岳の直下に広い駐車場があり、バスが大勢のお客を運んでいました。マイカーなど、庶民の手にはまだまだの時代ですから、バスも頻繁に運行されていました。バスの形に時代を感じます、と言っても何処がどうという程でなく何となくですが・・・。



 2日目、カモシカ温泉に泊まった翌日、つづら折れのジグザグ道を谷底から一気に賽の河原まで上がり、コマクサ平あたりにあったはずの滝見台から滝を眺め、刈田峠下の駐車場まで行ったはずです。当時、駐車場から刈田岳へはいかにして登ったのでしょうか、南蔵王の縦走に入ってしまったので登山道の位置が分かりませんが、刈田峠か前山あたりから振り返ると、エコーラインから刈田岳山頂まで真っ直ぐのラインが見えていました。直登路とすればかなりハードな道の筈です。



 この後、中央蔵王がガレと岩の山であったのと比べ、湿原有りお花畑有りの南蔵王、杉ヶ峰、芝草平、屏風岳から不忘山まで完全縦走し、硯石に下山しています。長老湖近くにユースホステルがあり、次の機会に利用できるか見に行ったことを思い出しました。

 この頃の愛読書「日本交通公社発行時刻表」には地方のローカルのバス時刻まで網羅されていて、重宝していました。かなり山奥の今でいう過疎の集落までも路線が延びていて、本数は少なくとも網の目のように張り巡らされていたようです。過去の記録を纏める為に現在のバス路線を調べてみると、地方自治体によるコミュニティーバスに変わっている所が多いのです。
 長老湖畔で乗ったバスは、鎌先温泉を経由して、白石駅まで向かったと記憶しています。

 モノトーンの世界が続いたので彩りを探しました。来週6日から仙台の七夕まつりが始まります。その話題、昭和62年(1987)8月、息子と蔵王のトレッキングをした時、前日松島から山形への移動の途中、仙台の七夕まつり見物をしていました

 

 写真はこの2枚しか有りません。バブル最盛期でしたから、身動きできないくらいの人出、撮影も思うに任せない有様でした。おまけに我が一家は人混み大の苦手、小さかった息子は人いきれに呑まれてしまい、滞在30分そこそこに逃げ出してしまいました。以来人里離れた山の中を徘徊するか、シーズンオフの観光地を訪ね歩いています。


岩とガレ それに箱庭の眺めもありました 蔵王自然園:宮城県川崎町

2008-07-31 16:43:59 | 山歩き

 昭和38年(1963)夏、蔵王の2日間の行動を記憶と画像を頼りに辿ってみました。峨々温泉から濁川を遡ってカモシカ温泉にたどり着いています。確認の為webサイトを探しても、多くは峨々温泉から尾根道を名号峰へ向かっています。カモシカ温泉の新噴気孔へは、エコーラインの賽の河原から谷底へ下っている場合が多いようです。今思うと残念なのは、“カモシカ温泉”の小屋の写真は撮っていなかったようです。沢を詰めた遙か彼方に滝が見えていますが、大きさからは不帰の滝?の様ですが、方向は振り子滝?確かめようがありません!



 昼前に着いていて、早速名号峰に向かっていました。松と灌木の林の中を登り、自然園へと向かいました。名号峰は林の中こちら自然園は膝までの低木と草むらで、好みの箱庭的な風景と見晴らしが非常に良かったのを憶えています。



 谷の向こうの崖には谷へ下りるつづら折れの道とガレ場の賽の河原が望まれ、その上辺に蔵王エコーラインの道路を確認できます。遙か向こうには、南蔵王のとんがり帽子の不忘山がくっきりと浮き出ていました。



 なだらかな尾根道を辿り一登りすると熊野岳頂上、熊野神社でした。此処まで来ると、エコーラインからの観光客も登ってきていました。



 熊野岳から、冬は樹氷原となる地蔵岳方面の赤外線写真です。黒い三角形に見えている樹が雪で膨らみ、樹氷を形作ります。



 この日はお釜の縁まで下り、その当時は登山地図に記されていた道五色岳の縁を乗り越え、ロバの耳を経てガレ場を谷底まで下りています。振り子沢から宿へ戻って、たった3人の相宿者、仲良く食事をしたことまでは記憶にあります。初日は岩と沢の一日でした。



水はどこからやって来た? 南蔵王:山形・宮城県

2008-07-30 14:02:24 | 山歩き

 蔵王のお釜、赤外線フィルムでなく普通の“ネオパンフィルム”で軟調に表現しても、岩肌のゴツゴツ感で無機質に表現されてしまいます。



 スキーにはそれまでも来ているはずですが、お釜に対面したのはこの時昭和38年(1963)夏が初めてでした。じっと眺めていて不思議なのは、瓦礫の間に僅かな草は生えていますが、取り囲む刈田岳、熊野岳そして五色岳には緑はありません、ガレの山なのです。このお釜の水は湧き水と聞いていましたが、どこから来るのか不思議なのです。山が取り囲むと言っても高低差は僅かですし、緑のない山に保水力があるとは思えませんでした。

 この前の年の秋、鬼怒川の奥を詰めた山の上に水をたたえた鬼怒沼に驚いたことを思い出していました。そしてお釜を跡にして刈田峠から南蔵王の縦走に入った時に出会ったのが、杉ヶ峰のピーク近くにあった池塘が点在する湿原でした。



 刈田峠先すぐに出会った記憶でしたが、そこには水たまり程度の池塘は存在したようですが、ガイド本などによると湿原と呼ばれるのは芝草平辺りのようです。当時は木道もなく、自由に徘徊できたように記憶しています。直前のピ-ク杉ヶ峰、夏雲を赤外フィルムが捉えていました。



 奥鬼怒の鬼怒沼と志賀高原の四十七池と、この時の南蔵王縦走で見た山の上の沼地、池塘が山歩きにのめり込んでいったきっかけとなったのではと、感慨深いものがあります。


急坂直登が堪えました 続・浅草岳

2008-07-25 14:39:50 | 山歩き

 浅草岳、新潟側からの登山口はネズモチ平に広い駐車場が造られ、桜曽根登山口の旧駐車場までは車は行かれなくなったとの最新情報がweb上にありました。保存してあった登山地図とは異なっていたのですが、新しい地図を書店まで買いに行くのは時間的に無理なので、幸いweb上で見付けたガイドからプリントアウト出来ました。
 かなり山深くまで入りますので、駐車場には10時過ぎてしまいました。

 

 前夜も雨が降り、山はぬかっていることが予想されました。岩だらけの直登急坂コースを下るのは滑りやすく難しいので、時間稼ぎも兼ねて登りに使うことにしました。



 矢張り前夜の雨でぬかっていて、岩だらけの水道は滑りやすくコース選択は間違いではなかったのですが、登りもかなりハードとなりました。このところの運動不足も重なりいつもの半分近くペースダウンの上、息を整える為の立ち止まりも多くなってしまいました。それでも見通しの良い尾根近くまで出ると、谷の向こうに守門岳の雄姿が見えていました。



 喘ぎながらも2時間かけてやっと桜曽根からの道を合わせ、見上げると前岳から頂上が見えるようになりました。

 

 前岳から頂上への鞍部には雪が残っていました。7月の初めには、雪渓と呼べる程の量で、軽アイゼンが必要だったと浅草山荘のweb上に掲載してありました。



 今日車で上ってきたのは六十里越えと呼ばれる道路で、例年GW過ぎまで雪で通行止めになってしまう程の豪雪地帯です。1600mに満たない山であっても7月までも雪は残っているのです。この雪渓を越え、鞍部を過ぎてやっと福島側の田子倉湖が望めるようになりました。



 頂上で展望を楽しんだ後は、先ほどの分岐まで戻り桜曽根への道を下ります。しばらくは整備された木段の道が続きました。



 登りに使った直登の道より数段歩きやすいとはいえ、岩がごろつき決して楽とは言えない道でした。途中おばさんと言い得る女性が一人ぽつねんと立っていました。聞けば朝駐車場出立の時、前を行く女性の集団が居ましたがその内の一人だったようで、仲間について行けず一人居残り帰りを待つことにしたとのこと、良い判断とはいえ集団とは木段ですれ違ったばかりでしたから、帰路は何時のことか、他人事ながら気の毒になりました。

 中高年の登山ブームが起こって久しくなり、依然山は“老人”の花盛り、頂上付近湿地の木道の休憩スペースで出会った若者のグループが、爽やかに見えた程でした。彼らは会津側の田子倉から4時間近くかけて登頂したと話し、途中単独行の年寄りが滑落してヘリが捜索しているのを見聞きしたと教えてくれました。

 旧桜曽根駐車場から車を止めた新駐車場までは、林道の平坦な道を30分歩くことになりました。山を登り終えた後の平坦な舗装路は、非常な苦痛でしたが、かろうじて路傍の花を愛でることで気を紛らわすしかありませんでした。

 



眼下に田子倉湖が・・浅草岳:新潟・福島県境

2008-07-24 10:38:31 | 山歩き

 この眺め田子倉湖を観るために登りました。眼下はすでに会津奥只見となります。



 アキアカネでしょうか?特定できませんが赤とんぼが顔の周りをうるさく飛び回り、画面にも入っていました。遙か彼方のとんがり山は、多分尾瀬燧岳あたりでしょうか。少しアップにしてみても???です。真下の湖面も澄んで青空を映していました。

 

 7月21日祝日、海の日ですが山に来ました。新潟・福島の県境に聳える浅草岳、新潟県側のネズモチ平登山口から登り始めました。急坂の直登でしたから、かなりきつい思いをしました。途中経過は整理が遅れているので後にして、登頂直前の模様から掲載、この最後のピークを登り切り彼方の頂上まで行かないと田子倉湖に会えません。残念ながら木道の周辺、湿原の筈がすでに草原と化してしまっています。



 頂上三角点ははっきりしているのですが、小さな石のお社もどきが鎮座していました。香立てか花生けか定かでない作り物が添えられていますが果てさて誰がどんな目的で造ったのか?ただ置いただけ?意味が分かりませんでした。

 

 頂上からは会津、越後、遠く尾瀬の山々が360度展開しています。この方向からみると八海山の筈ですが、確認できていません。



 前岳のピークから頂上にかけての湿原は草原となりはてていましたが、きめ細かな黒い土が面影を残し、湿原と草原の花が入り乱れていました。

 

 

 巻機山など枯れてしまい草原と化した湿原を数多く見てきましたが、温暖化や人的影響とは別に、湿原は機構や立地条件によって低層から中層、高層湿原といった姿に変化し、最終的には陸地へと変化していくのが自然の摂理と言われています。せめて人的浸食は最小限に留められれば幸いと思うしかないのでしょう。


何故か海 夕日に浮かぶ灯台 潮岬:和歌山県

2008-06-30 09:09:51 | 山歩き

1959大峰山奥駆け:終章

 下山してバスを待つ間周辺の景色を楽しんだ。深い谷は、見ているだけで楽しい。



 現在の地図では池原ダムと池原貯水池が在り、スポーツ公園や貸しボ-ト釣りスポットなどかなり栄えているようだ。ダムは1962年に着手1964年に完工しているようなので、この時1959年には写真の渓谷が存在していた。深い谷が在り風光明媚な場所は、ダムにとっても絶好地なのだ。日本全国で、いかに多くの景勝地を失ってきたか、枚挙にいとまがない。文明の利便性と自然とは共生できない運命にあるのだろうか・・・。

 この時、奈良交通の路線バスは熊野方面に向かったが、県境で乗客全員降ろされた。そして県境の峠に待っていた三重交通の路線バスに乗り換え熊野へ向かった。この頃はおそらく規制が強くバスの営業区域は厳密に決められていて、県境を越えての営業が出来なかったのであろう。
 しかし現在では時刻表で見ると、1日2本の運行しかない奈良交通と三重交通は直接接続しておらず、間を公営の下北山村バスが接続している。熊野市側からは、途中までは奈良交通のバスと北山村営バスが来ているが、途中公営の下北山村バスに乗り換えなければ下北山村まで行かれない。地方では民間の路線バスが不採算路線から撤退し、住民の足の確保の為地方自治体がバスの運行を確保していることが多い。しかも1日僅かな本数で、過疎化を加速する原因にもなっている。

 夕日に浮かぶ灯台と岩場、潮岬である。



 山から下りて、多分国鉄で串本まで来たのであろう・・・記憶はないが、暗くなっていたが駅を降りて客引きを捕まえ、価格交渉をして宿へ行ったことは憶えている。車で送られたが、相客に女性が2人同乗したのも何故か記憶にある。そして翌朝駅へは送ってくれなかった。大島へ船で渡り、1日潮岬界隈でゆったりと過ごし、夜行列車で名古屋へ向かっていた。



 夢中で謳歌していた青春の一時、途切れていた記憶も少しずつよみがえってきた。



岩場の行・・真似事です 奈良県下北山村辺り

2008-06-27 14:38:52 | 山歩き

1959大峰山奥駆け:6

 立ち枯れの木と原生林の奥駆け道、蒸し暑く、虻と蛭に悩まされた。



 雨量の多さでは日本有数の地帯である。足元まで覆う苔と灌木、それでいて林の中でも石ころガレ道だった。当時は一列で斜めに傾いて歩く程の、整備されていない道だったが現在は整備されている?分からない。

 



 講中の一行は、その道を駆けていたのだ。我々も、中日を過ぎる頃には道にも慣れ、荷物になっていた食料も半減し身軽になってやっと対等に列について行けるようになった。原生林の間には、そそり立つ岩場が時々現れる。エンの鼻崖?定かではない。



 山上ヶ岳の覗きの行場には行かれなかったが、道中には同様の行場があったので、案内して頂いた!否、付いていった。



 覗き同様肝試しの行となった。威勢良く吹く法螺貝も、崖っぷちでは怖じ気づいているのでは・・・。

 

 奥駆け道最終日は3人ともかなり疲れて自炊は諦め、講中と共に宿坊に泊まっている。素泊まりではあるが米は炊いてもらい、缶詰など残りの食料を全て食べ尽くした。宿泊したのはその頃の道の状況などから見て前鬼の小仲坊ではないかと思われるが、はっきりしない。奥駆け道そのものの状況は、現在も険しさは変わりがないように思えるが、道標はかなり整備されたようだ。しかし、水場の水不足は相変わらずのようで、途中川まで水汲みに降りたなどの記載がweb上に見られる。

 山の上での最後のフィルムに霞む山並みがあった。おそらく踏破を断念した瀞峡方面の惜念の風景なのであろう。



無人小屋が荒らされていた 奥駆け小屋事情:50年前です

2008-06-26 14:46:32 | 山歩き

1959大峰山奥駆け:5

 この旅ではテントではなく小屋泊まりはしていたが、無人小屋か自炊小屋だった。管理者の居る所では、薪も用意され夜具や食事も提供されていたが、自炊小屋は別棟に併設されていた。講中一行はもちろん賄い付きの宿坊(確か呼び名は山小屋ではなく)に、泊まっていた。片隅には水と火の使える設備もあり、無人小屋に比較して天国であった。

 

 薪の積まれた宿の前日であったと記憶しているが、無人小屋からの出立の時の写真である。



 外観は立派であったが扉窓の建具は全て破壊されて無く、風は吹きさらしで1500mを越える山の上、夏とはいえ夜は寒くてふるえた。哀しいことに根太の一部を残して床板は全てなく、薪代わりに剥がされたものと思われる。山に登る最低のマナーさえ守られていない事に悲しみを感じた。

 この小屋ではもう一つ災難があった。歩いて10分足らずにあるはずの水場の水、たれてはいたが数秒に1滴程の量で、炊飯に使う量を得る期待はできなかった。幸い溜の樽には僅かではあったが水が残っていた。しかし、中にはお決まりの“ボーフラ”が活動していた。そこで石で樽を叩きボーフラが沈んだ所をすくい取った。長年蓄えてきた“落語”の知恵が役立った!!(落語の演題は忘れたが)。この山行きでは、終始水不足に悩まされた。

 小屋から数メートルの地点にあった、何かの足跡である。写真でははっきりしないが、かなり大きかった。右端中央画面の半分程の長さの登山靴跡と比較すると、やや大きいことが分かる。講中の先達に聞いた所、側に糞があったので熊であるとのことだった。

 

 夜中に鳴き声がひっきりなしに聞こえていたが、その声も一種類ではなく熊か鹿かは定かでない。用心の為、夜通し焚き火を絶やさなかったことは、言うまでもない。



 そして、山並みはまだまだ続いていた。