春日集会 妹尾陽三
プロフィール
本籍地広島県福山市。1943年旧朝鮮京城市にて出生。慶應義塾大学経済学部卒。中村勝己教授の下で西洋経済史専攻。就職後学問的批判の対象であった企業家族主義に生きることに悩み、師の紹介により矢内原家庭集会の先輩、三島甫氏の聖書集会に連なる。米国駐在を経て発展途上国援助に関わり、その課題を論文に。『オフィスと道標』所収。IT子会社定年退職後独立企業を運営。近親者に原爆犠牲者多数。春日集会会員、『嘉信』読書会(旧矢内原忠雄勉強会)会員。「季刊無教会」編集委員。今井館教友会理事
“あなたの指のわざである天を見、あなたが整えられた月や星を見ますのに、人とは、何者なのでしょう。あなたがこれを心に留められることは。人の子とは、何者なのでしょう。あなたがこれを顧みられるとは。あなたは、人を、神よりいくらか劣るものとし、これに栄光と誉れ冠をかぶせられました。あなたの御手の多くのわざをひとに収めさせ、万物を彼の足の下に置かれました。すべて、羊も牛も、また、野の獣も、空の鳥、海の魚、海路を通うものも。私たちの主、主よ。あなたの御名は全地にわたり、なんと力強い事でしょう” (詩編第8編3節~9節)
主催者から与えられた発題のテーマは一見分かり易く、自然な流れで問題の所在と、有るべき姿の提言の方向性が導き出されるように見受けられる。事実私達が一人の人間として聖書を素直に読んでいけば、神の意志と被造物としての自然と人間の関係、人間の日々の生の営みとその総体としての経済の有り方は自ずと明らかのように見受けられる。聖書をよく読み込んでいけば、この根本問題は全て書かれているからである。然し、人がこれを己が命として喰らってその生き様を全うしようとすれば、非常な苦難に遭遇するところとなる。
その根本的理由は、人間に絶対善を生きるよう命じる神と、それに耐えらず罪に陥らざるを得ない人間の性という現実、そこからの救いを求める魂の救済への希求とその実現は、人類の永遠の課題だからである。さらには歴史の進展とともに、人類が自ら作り出した文化や体制が逆に行動を規制し、ひいては人間性そのものを束縛するように働いているのが今日の経済社会の実態である。私達はこの2つの矛盾律の只中に生きる事を強いられており、かつて欧米市民社会を形成する推進力となった私達の魂の祖先たちのような、「古典的クリスチャン」の生き方はもはやその全き姿においては望むべくもないのである。
神(宗教)と自然と経済は各々固有の論理と運動原理で存在しており、これらすべてに主体として人格的にコミットしていく人間の姿が在る。各々の内容と相互関係と、それらの究極に神の実在を見極めていかないことには、その実態は浮かび上がって来ない。このテーマを構成する四者は、一方で互いに助け合い他方で反発しあう関係(緊張関係)を保ちながら、民族・社会や国民経済さらには国家を形作り、その歴史を展開している。
私達が市民、とりわけキリスト者としてこのテーマに取り組むには、以下の視座が必要である。
1. 「自分」の視座の頂点に「神」を、底辺に「日常生活」、その周辺に「環境・自然」を。
(神と自然、自然と経済、経済と神という関係に、主体的に関与する人間の存在がある)
2. 経済・社会情勢は、通常外的および内的「利害関係」で決る。(資本の論理、国家理性)
歴史の転換点では理念・思想がこれを決することがある。(預言者、宗教改革、革命)
3. 政治・経済政策は誰の(社会階層・階級)利害を代弁しているのかを吟味する事が必要
国家・国民の利害の実体は?(資本家、経営層、高級官僚、Rentier、体制寄生者層)
(中村勝己『近代文化の構造』M.Weber『世界諸宗教の経済倫理』など)
A.「神」と「自然」
神は万物の創造主であるが、被造物のうち自らの似姿に合わせて創造した人間に、自然と生物の統治を委託した。(創①-27、⑨-2、詩⑧-6~)神の意思で忘れられがちなのは、自然は被造物ではあるがその存在と運動には一定の法則があり、その自律性を備えた存在が許されているということである。これ神の奥義に属する事柄である。(ロマ⑧-18~)
欧米社会には、自然統治の委託を任せられた人間が、神の創造物とその自律性を損なってはならない、という基本認識が厳然と存在しており、これが現実となった際には必ず”神の嘉し給う姿“への復元力が働いて来た事は、歴史の示すところである。
アメリカの資本主義の興隆期に経済活動にのめり込んで自然をないがしろにする風潮に、自然の摂理を説いたヘンリー・ソロー『Walden』、英国の産業革命によって破壊された自然や文化遺産の保全に努めナショナルトラストを創立した、ハードヴィック・ロンスレイやベアトリス・ポッター(日本ではピーターラビットの作者としてのみ有名)、近年の独占的大企業の製造する化学薬品や農薬によって人も自然もがこうむる壊滅的打撃への警鐘を鳴らした、レイチェル・カーソン『沈黙の春』などがその代表例である。
一方、日本には自然破壊は神が人間に自然を支配することを許したせい、或いは一神教がその元凶であるとの根強い批判がある。これは上記の聖書の説く所に対する基本的理解の欠如によっているが、日本さらにはアジアの精神生活を今なお支えている多神教的アニミズムがその根底にある。さらには、人間の本能の放縦を尊ぶ”自然人”崇拝という人間観に根ざしている。ナチズムの原初神話、戦前の京都学派の日本浪漫主義などで、敗戦とともに否定された人間観を復活させようとする昨今の政治的意図を実現させてはならない。
神以外のいかなる被造物をも神とせず(被造物無価値)、人と人との関係の基礎を血縁や地縁(昨今の学閥、派閥、財閥)に求めず、神のみを究極の価値として信仰するクリスチャンの生き方が、人間を不当な頚木から解放したと言う歴史の経綸に学ぶべきである。
B.「自然」と「経済」
冒頭にあるように、近代の宗教、文化・芸術・科学・技術、政治、経済などの文化諸領域は、固有の論理で活動して、その論理は互いに補完・反発しあい緊張関係を保って存在している。
「自然」は一見没価値的に見えて、神の創造物であり、宇宙の完成のために神の再臨を待ち望みつつ自律を許された存在なのである。(ロマ⑧-18~)
経済の運動の論理は資源の最小投入による最大利益の創出であるから、その実現のためには自然の自律運動・循環による再生産活動と衝突する危険をはらんでいる。実例として、
開発による災害、化学物質による汚染、遺伝子組み換えによる人体への被害・生態系の破壊、原子力による直接被害と遺伝子破壊による子々孫々に迄及ぶ被害、廃棄物による長い将来にわたる人類社会の汚染などである。これらに共通するのは、生産物が自然循環の連鎖を破壊して生態系を回復不可能にすることである。およそ土に還らざる物質はこれを警戒すべきである。経済活動は自然循環の中で行われなければならず、今日の自然状況は大量生産・大量消費、米国利害に従属するグローバル市場向け輸出依存、これを守るための軍事大国の構造から脱却して、自然エネルギー、土、草、材木・森林、微生物などを利した新しい経済体系の創出へと転換すべきときに直面している。具体的には、自然を利した地産地消、農工の連携、国内市場の拡大、軍備縮小による福祉、教育の充実と言う平和経済への道である。
(大塚久雄『国民経済論』内村鑑三『デンマルク国の話』)
C.「神」と「経済」
キリスト者として「経済」とどう関わるべきか?「神の嘉される道」とはいかなる道であるか?
具体的にはそれぞれが置かれた立場によって異なる。自分は3.のどの階級に属するのか?
昨今の世界を席巻する投機的金融資本主義や強欲資本主義の礼賛者が、その教祖と崇めるアダム・スミスは著書「道徳感情論」で、強欲を戒め、「国富論」で社会の富Commonwealth
の実現はMiddling and Lower Sort(中下層階級)の人々を豊かにする事と述べている。
最近の日米で支配的な新自由主義、これを世界代に展開するグローバリズムTPPの結果は
極端な貧富拡大と、労働の不安定・分配の不平等、福祉・教育予算の削減である。この
様な公序良俗に反する富の蓄積の在り様は、当時の社会常識に照らせばWealth against
Commonwealthと糾弾を免れない所である。富裕層と権力の少数者への集中、中産層階級の衰退、貧困の蔓延という政治社会情勢がもたらす結末は、旧約の世界が示してきた所である。小規模牧畜者と中小農民を基本としたイスラエル社会が、ダビデ・ソロモン王朝でオリエント型の専制国家に転化し、中産階級の没落と共に傭兵による戦車軍団による国防を頼った、末路は滅びであった。この体制悪という罪を糾弾して、寡婦、寄留者など弱く虐げられた人々への憐憫を希求して民族の再生を図ったのが預言者達であり、申命記者達であった事に思いを馳せるべきである。(中村勝己『世界経済史――イスラエル』
個人としての関わり方は、かつて資本主義が興隆し・民主主義が形成される時期には、古典として有名なM.Weberの『プロテスタンテイズムの倫理と資本主義の精神』や内村の『桶職』
にあるような、額に汗して働くことが神の御旨に適う、労働の究極の価値と信じられていた。
これに反して、神の御手を離れた現代の資本主義に仕える身として悩ましいのは、自らの働
きは大なり小なり構造悪に関わらざるを得なくなっているという冷徹なる事実がある。
このジレンマは、自らの生き方そのものに関わるものであり、答えは無論簡単ではない。究
極においては、悩みの只中での祈りの中で啓示を待つ他はない。しかしその前に聖書の語る
ところを深く読み込んで、“歴史を造りこれを支配される神はどのように人々を導いてこられ
たのか、について神の経綸について学ぶことは無駄ではないはずである。
私達無教会員は、幸いにして多くの先輩たちが遺してくれた神と自然と経済の関係、これに
主体的に関わって生きる人間の営みに関して、洞察に満ちた多くの著作に恵まれている。
その幾つかを下記に紹介しておくので、聖書の研究に併せてじっくりとお読み頂ければ幸い
である。これらの著者の問題意識の底に聖書がどっしりと腰を下ろしている事に気がかれる
筈である。否、事象の根底に在ってこれを全ているものは只一つなのである。肝心な事は、
それを感知する感性が有るか否か、それ(信仰)を日頃から磨いているか否かなのである。
米国人として初めて宇宙から地球を眺めた飛行士は、思わず冒頭の詩編八編を思い浮かべたという。後日彼は神に仕える人となった。卓越した科学知識を有し職業人として高度の任務を全うした果てに彼が見たものは、「神の実在」であったに違いない。此処に生き方の根源において日本人とは異なる、欧米人の精神を支配する思惟と行動の必然の型を観るのである。
<参考文献>
A.「神」と「自然」
Henry David Thoreau “Walden” (邦訳有り)
レイチェル・カーソン 『沈黙の春』
マニー・ロバク・ロバン 『モンサント』
小林 裕 『森林文化論』
森 まゆみ 『自主独立農民という仕事』
柳父 圀近 『ナチドイツの政治思想』『エートスとクラトス』他
B. 「自然」と「経済」
小山源吾 『日本農業の歩むべき道』『共に生きるための農業』(編著)
藻谷 浩介 『里山資本主義』 『デフレの正体』
宇沢弘文 『公共経済学を求めて』他
浜 矩子 『国民亡き経済成長』他
金子 勝 『「脱原発」「成長論」』新しい産業革命
C.「経済」と「神」
マックス・ウェーバー 『プロテスタンテイズムの倫理と資本主義の精神』
『世界諸宗教の経済倫理』
アダム・スミス 『道徳感情論』 『国富論』
内村鑑三 『デンマルク国の話』他
矢内原忠雄 『矢内原忠雄全集1~5巻』他
大塚久雄 『国民経済論』『著作集1~13巻』
中村勝己 『世界経済史』『近代文化の構造』『内村鑑三と矢内原忠雄』他