無教会全国集会2015

2015年度 無教会全国集会ブログ

韓国における無教会の歴史と現状

2016-01-28 22:59:07 |  1 韓国における無教・・

吉 廣雄(韓国・仁川集会)

プロフィール
(出生と職歴)
1944年10月4日、全羅北道鎭安郡龍潭面月溪里で生まれる。小学校教師として定年まで勤務。退職後は、平生学習館で韓国語講師として韓国語を指導(外国人を含む)し、現在に至る。
(信仰歴)
3、4歳の頃、祖母と母親がキリスト教に改宗し、その時からキリスト教を信じるようになった。大学時代に回心を体験し、元敬善先生に3年間師事。1969年から1979年まで京畿道甕津郡長峯のプルン学園で教師として勤務しているときに、宋斗用先生に10年間師事した。
宋文鎬先生の主宰する仁川集会に出席。2004年に石鎭祐先生が加わり、集会名を仁川聖書集会に改めた。2015年6月から集会場所を拙宅に移転した。「聖書信仰」という信仰雑誌を隔月で発行し、現在58号になる。韓国聖書信友会会長。

フィリピの信徒への手紙(3章20~21)
3:20 しかし、わたしたちの本国は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主としてこられるのを、わたしたちは待っています。
3:21 キリストは、万物の支配下に置くことさえできる力によって、わたしたちの卑しい体を、御自分の栄光ある体と同じ形に変えてくださるのです。
この聖書から引用した一節の旨は、今日この場に集められた我々は日本あるいは韓国の国籍を持っている国民ではなく、天という共通の国籍を持つ天の市民であるということである。
 
Ⅰ.韓国のキリスト教
 これから韓国におけるキリスト教の伝来についてお話しさせていただきたいと思う。韓国におけるキリスト教の伝来は、中国や日本に比べると200年あるいは300年ほど遅れた。
 まず、カトリックの伝来について。1582年に起きた壬辰倭乱の際、豊臣秀吉の日本軍に従ってきた宣教師によって伝播されたという説や丁若などの実学派の学者によって伝来したなど様々な説があるが、1783年李承薫が北京で受洗し、1784年から始まったとのを基準とするのが定説である。
 韓国のカトリック(天主教)は宗教的な理由より、当時の朝鮮王朝の儒教国家体制の下における儒教の伝統精神とぶつかるという点と政争が絡んで、しばしば激しい弾圧と迫害が起こった。代表的なこととして、1785年の乙巳教難や1801年の辛酉教獄、1866年の丙寅教難などしばしば迫害が行われた。
 こうした迫害にもかかわらず、韓国カトリック教会が成長したのは、1836年金大健という人がマカオ神学校に行って朝鮮で最初の神父になり、帰国して民の中に身を隠しながら宣教活動を行うことによって、信者が増加し続いた。
 1895年に朝鮮王朝による赦免令が発表された際、1866年に迫害を受けた人々はほとんど含まれなかった。しかし、この赦免令は信仰の自由を公認するための事前措置と見なされた。1905年には日本との乙巳条約により朝鮮の外交権が剥奪され、1910年には日韓併合により日本帝国主義の統治下に置かれたのである。したがって、カトリックも沈滞期に入ることになった。
 日帝の統治からの解放後、韓国は宗教の自由が保障されるようになった。しかし、1950年6月25日から3年間、朝鮮戦争が続いた際には、カトリックは共産主義のせいで多少沈滞したが、その教勢は増加し続いた。こうした苦難の中でも2005年の統計で、韓国カトリック教会の信者数は5,146,147人に達したのである。
 韓国のプロテスタントの公式的韓国への伝来は、1884年に米北メソジスト教会の宣教師であるアレン(H. N. Allen)の派遣が最初である。1885年には長老教のアンダーウッド(H.G.Underwood)宣教師が入国し、プロテスタントの教派が韓国の宣教に関心を持ち始め、上記二派以外に聖潔(ホーリネス)教会、浸礼(バプテスト)教、救世軍、ルター教、聖公会、安息(セブンスデー)教などが入朝した。
 日本帝国主義によって国権が奪われて行く中で、1907年大復興会(リバイバル)運動が起こり、信者数が急増した。1910年日韓併合され、日本帝国主義の統治期にはプロテスタントに対する弾圧が甚だしかった。1919年3・1独立運動が起こるが、その時の宣言文を作成する際、民族代表として33人が署名したが、その構成は、天道教(韓国の民族宗教)15人、プロテスタント16人、仏教2人であった。3・1独立運動が始まった際の韓国のプロテスタントの教勢は微々たるものであった。ところが、民族代表の33人の中半分程度である16人が署名したことは、韓国のプロテスタント信者の信仰の中で愛国心が強かったことが窺える。その後にも神社参拝拒否や皇国臣民誓詞などに抵抗し、数多いプロテスタント信者が投獄されたり、弾圧されたりした。
 その代表的な事例が堤岩里教会焼打事件である。この事件は、カナダ宣教師であるスコフィールド博士によって西洋諸国に知らされたのであった。1964年には、謝罪旅行として訪韓された政池仁先生が、1967年から始まった堤岩里焼打事件謝罪委員会を立ち上げ、2年間募金運動をして、堤岩里教会を再建してくださったこともあったのである。
 韓国のプロテスタント信者数は、2005年時点で8,616,438人に集計されている。

Ⅱ.韓国無教会の歴史
[1]無教会信仰の特徴。
内村鑑三先生は「無教会」を次のように語られた。「無教会というと、無政府あるいは虚無党のように言うようであり、何か破壊主義の書物のように考えられるが、決してそのようなものではない。“無教会”は教会の無い者の教会であります。すなわち、家の無い者の合宿所であると言えます。すなわち、心霊上の養育院あるいは孤児院のようなものであります。無教会の“無”という字は“ない”という意味で、“無くすあるいは無視する”という意味ではありません。」
 韓国に無教会の信仰を伝えた金教臣、宋斗用先生も上述の信仰からはずれたことがないのみならず、徹底的にその信仰に基づいた生涯であったと考えます。『聖書朝鮮』が刊行した初期に、金教臣先生は教会、無教会を問わず「我々を利用する」という文章を載せ、教会の破壊分子ではないことを明らかにしたのである。金教臣先生は、「我々が内村先生の下で無教会を専攻した者であると言われているが、それは大変な誤解である。我々が10年にわたって内村先生から学んだのは、無教会主義ではなく『聖書』であった。『福音』であった。たとえ、内村の心の中には無教会主義ということを建設・鼓吹しようとするつもりであったといえども、私が学んだのは無教会主義ではなく聖書の真理であった。」と述べています。

[2]韓国無教会の始まり
(1)金教臣以前の韓国無教会
 韓国無教会の信仰の始まりは、金教臣を含む内村鑑三先生の聖書研究会に参加した学生6人から始まったと言われる。ところが、それ以前にも既に1916年から韓国には無教会信仰はあったといえる。その中でも、安鶴洙先生が有名である。
 安鶴洙先生は、1920年に京城医学専門学校時代、修学旅行で東京に行った際、ある書店で内村鑑三の『聖書之研究』を読んで以降、定期読者になり霊的な交流がはじまったのである。1926年9月に京城において『聖書之研究』読者会が開かれ、そこに安鶴洙先生が出席していた。もちろん、『聖書朝鮮』が創刊されて以来、安鶴洙先生は読者として金教臣先生と交流が継続したのである。しかし、1930年代の終わりごろは、当時の朝鮮総督府は、朝鮮全国で刊行している全ての刊行物に「皇国臣民誓詞」を載せる政策を推し進めた。その問題をめぐって、『聖書朝鮮』を廃刊するか、あるいは総督府の命令に従って「皇国臣民誓詞」を載せるかについて議論があったのである。結局、金教臣先生は廃刊よりは雑誌を刊行し続けるために総督府の政策に従うことになった。しかし、安鶴洙先生は剛直な人であったので、その時から『聖書朝鮮』誌の購読をやめた。それで、1942年3月、独立運動の嫌疑を受けた「聖書朝鮮事件」の際、安鶴洙先生は読者ではなかったため、拘束されなかったのである。
 安鶴洙先生の信仰は、もっぱら神様一人だけに向いたものであった。安先生は隣に住んでいた張氏という人を「霊文会」の弟子にした。ところが、1950年6月25日、朝鮮戦争が勃発した後、北朝鮮軍の侵攻におびえ、安先生を訪ねて「先生も聖書を燃やさなければ、先生の命のみならず、自分も危険にさらされるので、聖書と全てのプロテスタント関連の書籍を燃やしてください」と強要した。安先生は聖書を燃やすなら自分が死ぬ方がいいと思って、聖書を守るために年6月28日に奥さんと共に自決(殉教)したのである。
 安先生は1950年まで宋斗用、盧平久先生と密接な交流をし続け、塚本虎二先生は1951年6月『聖書知識』(第254号)に安先生への追悼の書を載せたのである。
(2)『聖書朝鮮』と韓国無教会
 1927年に東京高等師範学校を卒業した金教臣を含む咸錫憲などが帰国した。内村鑑三先生の聖書研究会に参加した6人の朝鮮学生も朝鮮に帰って1927年7月に『聖書朝鮮』を創刊した。1930年5月の第16号までは、鄭相勳氏が発行者として、1930年6月第17号からは金教臣先生が編集兼発行者になり、第158号まで先生個人の責任のもとで『聖書朝鮮』が刊行されたのである。
 最終号になった1942年2月の第158号に乗せた「弔蛙」(蛙を弔う)という短い文章で、独立思想を鼓吹したという嫌疑で『聖書朝鮮』の読者が全国で逮捕された、いわゆる「聖書朝鮮事件」が起きた。しかし、1943年3月、検察の不起訴処分で最後まで逮捕された13人が釈放されたのである。
 韓国無教会において『聖書朝鮮』の役割は多大なるものであり、『聖書朝鮮』は韓国無教会を形成する中心的働きを為した信仰雑誌であった。
(3)韓国無教会略史
 韓国無教会の歴史は約90年であり、時代的に3期に分類することができると思われる。これは私自身が分類したものである。
第1期:胎動及び定着期(1927年~1945年)
『聖書朝鮮』の創刊から金教臣先生の召天、政治的には日本帝国主義の統治下の朝鮮から解放(独立)まで。
1927年、内村鑑三先生のもとで聖書とプロテスタントの真理を学んだ金教臣先生を始め6人が朝鮮に帰国して『聖書朝鮮』を創刊するによって純粋に福音伝道を始まるようになった。これを韓国無教会の発端とみなす。
 韓国無教会の集会は、家庭集会を中心に発展し、ソウルなどの首都圏においては金教臣先生が、1931年以降には宋斗用先生がソウル近郊の梧柳洞に居を移した以降、集会の中心になった。現在北朝鮮の平安北道には咸錫憲先生が五山学校を拠点に聖書集会を指導した。こうした形が1945年まで続いたのである。1933年12月30日からは『聖書朝鮮』の読者を中心とした冬期聖書講習会が始まり、それが現在の韓国無教会の夏季・冬季聖書集会の始まりで続いてきているのである。
第2期:中興・発展期(1946年~1999年)
宋斗用先生の『霊断』誌の創刊、盧平久先生の日本から帰国し、『聖書研究』創刊から終刊(1999年、第500号)まで。
1.概観
 第2期の終わりを1999年にしたのは、盧平久先生の『聖書研究』誌が第500号で終刊した年であったためである。 
1945年4月25日、金教臣先生の召天
 1945年8月15日、朝鮮(韓国)解放(独立)
 1948年8月15日、大韓民国政府の樹立
 1950年6月25日、朝鮮戦争の勃発
この時期は、解放後、南北に二つの国家が成立し、朝鮮戦争によって分断が固定化し、この間、韓国は前半は、李承晩、朴正煕による独裁政治、後半は民主化が実現するという、韓国の国内情勢が激変した時期でもある。
こうした政治的混乱の中に信仰を堅持するのは、大変難しいことであったことは言うまでのない。しかし、第2期は、韓国無教会の陣営は長足の発展をとげ、信仰の定着をなした点で、中興期であったと思われる。また、この時期には、『金教臣全集』7卷、『聖書朝鮮』の復刻版、そして『盧平久全集』16卷が刊行されて、李瑨求先生は『宋斗用先生信仰著作集』6卷を刊行したのである。
2.聖書集会の現況
 盧平久、宋斗用二人の先生が集会を続けた結果、ソウルのみならず、大田、大邱、釜山、光州、全州、洪城など、無教会聖書集会が13ヶ所にいたるようになった。特に1958年には、韓国の忠清南道洪城郡にプルム学園が無教会信仰を土台とする教育機関として開校したのである。それで盧平久、宋斗用二人の先生の主催で韓国無教会の夏季・冬季聖書集会がプルム学園を会場に開催され、現在に至るようになったのである。1986年に宋斗用先生が、2003年には盧平久先生が召天されたため相当難渋したが、諸先輩や諸先生が信仰をよく堅持してくれたのである。
第3期:2000年~現在まで
1.概観
 2000年までは、盧平久先生がまだ生存されていたが、YMCA聖書講義と「聖書研究」誌の発行。1999年12月誌齢500号を最後に、全てを整理していた時期である。そのため、2000年からは韓国無教会に新たな転機が始まったと見るべきである。この時には劉熙世、李瑨求、宋文鎬、石鎮祐先生などが集会を維持するために大きな役割を果たした。
集会の形態が少し変わったところもあったが、若木集会指導者らの奮発で新たに跳躍してきた。
2.集会現況(2015年現在)
 韓国無教会の聖書集会と聖書研究会は、地域的にその数が増加した。ソウルと仁川を含めて首都圏域だけでも小規模ではあるが、梧柳洞、大方洞、仁川、鍾路、光明洞、利川、水原などに集会があり、毎週日曜日に定期的に聖書集会をし、一心会館(故崔泰士先生記念館)の一心会も毎週聖書集会をしている。
仁川聖書集会では石鎮祐先生主管で2006年から毎週水曜日に聖書読書会を始め、関根正雄先生著作集(日本語原文)の中で『ロマ書講解』上下巻と『創世紀講解』を教材として読書会をしたが、石鎮祐先生の健康の問題で2011年に中断された。
地方の場合、大田、大邱、釜山、光州、全州、洪城などで聖書集会を続けている。
また、聖書原語であるギリシャ語とヘブライ語の講座は、隔週(1回の時間は2時間以内)、田俊徳先生のもと2011年以降、一心会館講堂で続けられている。

Ⅲ. 日韓無教会交流
1.概観
 日本キリスト教双書『無教会史II』339ページをみると、劉熙世先生は「韓国では韓国無教会史が存在する。しかし、これは日本キリスト教双書の項目には編入されない。また『無教会史I』の序文で“無教会と言うのは、内村鑑三によって創始された福音的キリスト教の日本的展開である”と定義されているが、これは日本的展開である。韓国関係がここに包含される余地はない」と述べているが、これに全く同意する。
しかし、内村先生が新たな純粋福音による信仰だけの救いを主張したこと、つまり、このような働きかけが必要とされた時期になされられたというのは確かな事実である。おそらく、内村先生も一つの宗派を考えていた訳ではないし、また、日本の皆様も同じ考えであると思われる。「無教会」というのは、先人の先生たちの定義からも分かるように、教派ではない。そうであれば、無教会を“福音的キリスト教の日本的展開である”と限定するのは、日本以外の地域に適用するのに無理があると思われる。それより“福音的キリスト教の全地球的、全宇宙的展開”と呼ぶのがもっと妥当ではないかと思われる。これは内村先生の“初夢”という文書によく表れていると考えられる。
しかし、無教会信仰の中で日韓関係は切っても切れない緊密な関係であることは否定できない。また信仰にあって和解と赦し、一つになるのは主の前では非常に重要であると思われる。

Ⅳ. 無教会信仰の将来

(1)韓国無教会と教会の関係
 初期から無教会信仰に対する韓国教会側の見解は非難と協助が共存していた。教会の長老たちの中で、無教会信仰を実践し、集会と聖書雑誌を発行した方もいた。その代表的な方が、張起呂博士(釜山集会)と李炳烈先生(『聖書世界』)です。また、韓国教会史学者の中でも代表的な人物である閔庚培(元延世大学神科大学)教授は、比較的友好的で、無教会を信仰と見なしているが、他方、長老教神大学の韓崇弘教授は初めから無教会を異端と断定し、非難していた。

(2)無教会信仰の将来 
塚本虎二先生は「無教会信仰の将来は誰も知らない。ただ、神様だけが知っておられる」と語られたことがある。このように、韓国無教会の将来は誰も知らない。しかし、一つだけ確かなのは、純粋なキリストの福音信仰を、神様は此の世が終わるまで守ってくださるということである。

Ⅴ. 金教臣先生記念事業会の発足以後の韓国無教会と「カナアン」信徒
(1)金教臣先生記念事業会の発足
 2014年8月23日(木)に創立準備委員会が開催され、2014年11月28日にソウルで創立総会が開かれた。これをもって、「金教臣記念事業会」が発足したのである。
また、2015年4月25日(土)には、金教臣先生逝去70周年記念シンポジュームが、2015年4月26日(日)には記念講演会が開催された。
今まで‘金教臣’とか‘無教会’などの言葉は、学位論文や研究論文の主題(約100編ほど)にはなっていたものの、韓国で‘金教臣’とか‘無教会’を主題として公開的にシンポジュームが開催されたのは、これが嚆矢であると考えられる。

(2)「カナアン」信徒の意味
 「カナアン」信徒というのは、聖書の言う聖徒の最終目的地、あるいはイスラエルの民がエジプトを脱出し、到着すべき最終目的地である「Canaann(カナアン)」から派生したものではなく、韓国語の‘いかない(教会に出ない)’を逆読みしたものである。
韓国牧会者協議会の研究によると、自らキリスト教徒であると答えた人たちの中で、約10%が教会に全く行っていないか、何らかの方法で礼拝をしていると答えた人たちを「カナアン」信徒と呼ぶようになったのがこの言葉の始まりである。
韓国プロテスタント全教団(長老教、監理教、聖潔教、浸礼教等)の統計から見ると、韓国のプロテスタントは約1千万人と推算される。そして、その10%であるというのは、約100万名の「カナアン」信徒が存在すると考えられる。無論、これらの人たちが皆んな無教会であると主張するつもりはない。しかし、彼らが教会に行かない理由は、制度的教会と司祭主義に対する批判的認識が潜在的に存在していることも事実である。
注意すべきことは、無教会は教派ではないという点である。彼ら個人や家庭があらゆる形態で礼拝し、ヤーベの神様を唯一の創造主として信じ、イエスがキリストであることを信じるならば、彼らは確かにキリスト信徒である。したがって、ある意味の「無教会人」である。彼らが無教会集会に参加するか否かは大きく問題視すべきではない。アメリカでも家庭教会(Home Church)という形がある。

(3)無教会に対する質問
 現在の韓国無教会に、『無教会論の軌跡』(キリスト教図書出版社)という本の中の、中沢洽樹氏の質問を引用してみる。
 1)金教臣、内村鑑三以降、無教会の本質は変化したのか。
 2)無教会主義は、教会主義に対してプロテスト(改革あるいは抵抗)するに過ぎないのか。そうでなければ、無教会の存在理由は何であるのか。
 3)無教会にとって教会(集会)形成というのは何であるのか。
 4)無教会集会のあらゆる方法に何らかの問題はないのか。
 5)各集会等で先生たち(例えば金教臣、宋斗用、盧平久など)について、毎年、記念講演会などを行っているが、無教会の歴史においてどのような意味を持つのか。
 これらの質問に明確な答えを出すのは難しいと思われる。したがって、私たちはキリストが教えられたように、兄弟と和解しながら共に生きるしかない。結論として『聖書朝鮮』の創刊辞の末尾を引用する。
『聖書朝鮮』よ。汝はまず、イスラエルの家々に行け。いわゆる既成信者の手を経るな。キリストより外人を礼拝し、聖書よりは会堂を重視する者の家には、その足をとどめるな。
『聖書朝鮮』よ、汝はいわゆる基督信者よりも朝鮮魂を持つ朝鮮人の所に行け。田舎へ行け。山里へ行け。そこに樵夫一人を慰めることを以って汝の使命とせよ。『聖書朝鮮』よ、汝にもしこのような忍耐力があるなら、汝の創刊の日付より後に生まれた朝鮮人を待って面談せよ。相論ぜよ。
同志を一世紀後に期すとも何の嘆くことがあろうか。
このような信仰的抱負が韓国の無教会の始まりからあったが、これを持って韓国無教会の役割を果たすべきであると考える。

(付記:吉廣雄先生の講演を、通訳した李必榮、金東明の留学生が翻訳原稿化したものを、「日韓青年友和の会」の森山浩二が最終的に補足・まとめたもので、その責任は私にあることを記します。)