無教会全国集会2015

2015年度 無教会全国集会ブログ

宗教改革的視点における無教会

2016-01-24 21:12:41 |  1宗教改革的視点に・・

荒井克浩

プロフィール
 1961年生まれ。立教大学経済学部卒業。真理を模索し教会へ通ったが解決せず、数年間座禅修業をする。高橋三郎先生に師事し高橋聖書集会に参加。珈琲関係の仕事を経て、家業を引き継ぎ現在代表取締役。仕事をしながら夜間の神学校、日本聖書神学校に学び卒業。2009年12月より独立伝道に入る。現在、駒込キリスト聖書集会主宰。月刊伝道雑誌『十字架の祈り』主筆。NPO法人今井館教友会事務局勤務(総務)

※私の伝道雑誌『十字架の祈り』2015年2月号より以下の文章を引用して資料としました。無教会の真理性の確認作業の一つとして発題いたします。これによって無教会精神の重要性を再確認して頂けるならば、幸いです。
                                                  
内村鑑三「ルターの遺せし害毒」に感ず(短縮版)


 内村鑑三はルターを心より愛せし人でした。「ルーテル伝講話」*1におきましては、「私にとりましては、ルーテルは歴史的人物ではありません。個人的友人であります。主イエス・キリストを除いて、私の心に最も近い者は、使徒パウロと聖アウグスティヌスとルーテルであります。これらの三人が無くして、私は今日あるを得ませんでした。~私は彼に対し、特別の親密を感ずるのであります」*2と言っています。
一方で内村は、「ルーテルの遺せし害毒」*3を通してルターに批判を加えています。
「ルーテルは多くの功績を遺した。世界と人類とは彼に多く負うところがある。同時にまた、彼は少なからざる害毒を遺した」、「ルーテルは、ローマ天主教会なる大勢力を倒さんと欲して、二個の勢力にたよった。その第一は政権であった。その第二は聖書であった。そうして政権、聖書二つながら、彼と彼の後従者とを禍(わざわい)したのである」*4と言っています。つまりはルターが、政権を用いて宗教改革をおこなったこと、そして「無誤謬的教会を倒さんと欲して、無誤謬的聖書をもってこれにあたった」*5こと、の二つを上げました。特に後者に関しては、「聖書はたして無誤謬なるか」と疑問を呈し「聖書を絶対的真理と見て、ここに偶像崇拝の一種なる聖書崇拝(Bibliolatory)が起こらざるを得ないのである。そうしてルーテルによってこの偶像崇拝が始まったのである。すなわち聖書崇拝が始まったのである。そうして、すべての偶像崇拝が多くの恐るべき害毒を持ち来すがごとくに、聖書崇拝もまた多くの恐るべき害毒を流したのである」、その「害毒」とは、「まず第一にプロテスタント教会が四分五裂したのである」と言います*6。
つまり各宗派は聖書の自由な解釈でそれぞれの成立根拠を聖書に置いた結果、対立し「四分五裂した」というのです。
そしてカルビンがセルベートを聖書解釈の違いから焼殺し、それをメランヒトンが神意にかなうことであるということを表白したこと、ルターのアナ・バプテストへの「極端な信仰主張をする者」がゆえの嫌悪と憎悪、「大聖書学者」メランヒトンの鑑定によりクラウツ、モレル、パイスケル平信徒三人が死刑となったこと、カルビン主義信者ジョン・ラスコに対する同じプロテスタントなるルーテル教徒の冷遇・虐待(聖餐式、バプテスマの見解の相違が理由であったという)、を上げつつ「異端のゆえをもって人の命を奪うは大なる罪悪たるは、日を見るよりも明らかである」と言います。特にジョン・ラスコの一事は、「聖餐式の事、バプテスマの事等について、聖書の見解を異にするのゆえをもって、彼らに倚(よ)り来たりしカルビン派の新教徒を、かくも冷遇、虐待したのである」と言い、「第十六世紀宗教改革の暗黒的反面を例証して余りある」と述べます。*7。
続けて、「文字の旧(ふる)きに由(よ)らず、霊の新しきに由りて仕う」(ローマ書7:6)、「文字は仕うるにあらず、霊に仕うるなり。そは、文字は殺し霊は生かせばなり」(コリント後書3:6)を上げつつ、「字に由りて、聖書文字たりといえども、人を殺すのである」と断じます*8。そして「さらばわれらはルーテル、カルビンにとどまるべきか。これまたしからずである」、「カルビンの徒とルーテルの徒とは、聖書の文字に由りて神を知らんとして欲して、大いに誤りたるのである」と結論します*9。つまり、カルビンもルーテルも、その信徒たちも、聖書の文字で神を知ろうとして大きく間違えた、と内村は言うのです。


 ルターが、ツビングリと聖餐論争をしたことは有名です。ルターは、聖餐の由来とする聖書箇所(マタイ26章、マルコ14章、ルカ22章、第Ⅰコリント11章)、の「これはわたしの体である」を、文字通りパンの中にキリストが存在しているのだと論じて譲りませんでした。一方ツビングリは、「これはわたしの体である」を、文字通り理解するなら意味をなさない、イエスは「これはわたしの体を表す」と象徴的に語ったのだ、と論じました。この論争は一致を見ることはありませんでした。
 そしてルターの流れにおいてはルター派教会となり、ツビングリの流れにおいては改革派教会となり、分裂しました。
 つまり、ルターの聖書の語句に固執し偶像的に捉える見方―無誤謬的聖書理解―は、その固執自体が絶対化するがゆえに、違う論法を持つ相手との間に分裂をもたらすということがいえるのではないかと受け止めます。ルターの思想の根底に、この聖書偶像化の問題が潜んでいたことは、驚くべきことです。
 内村は彼の「洗礼晩餐廃止論」の中で、「キリストの聖意にかなう最も善き聖餐は、貧者と共に飲食を分かちてキリストの心を喜ばすにあり」と述べ、続けて「晩餐の方法は一つにして足らず。なんぞ必ずしも銀の皿に盛れるパンを食い、銀の杯に満つるぶどう酒を飲むことのみ晩餐式と言うを得んや」と述べています*10。
 ここに、私は聖書偶像化とは次元を異にした霊に仕える聖餐理解、つまり主イエスの復活の霊に直接相見える自由な姿を見るのです。「晩餐の方法は一つにして足らず」の言葉に、あの「第十六世紀宗教改革の暗黒的反面」を脱する見解を見出し、わが心は感謝に溢れるのです。
 もしルターとツビングリの聖餐論争に内村が加わっていたならば、やおら大きなテーブルを出し、貧しき人々を呼び、彼ら2人も加えてばくばくと大盛りの銀飯を食らった後に、ルターとツビングリに向かい、「主の晩餐がおわかりか。すべての人々よ、和解せよ、愛し合え」と語ったのではないでしょうか。
主の晩餐は、分裂ではありません、和解であります。形ではありません、霊であります。違う者たちが一つの食卓に座る事であります。


 またルターとツビングリの聖餐論争におけるルターの主張は、カトリック教会のスコラ的原則の残滓が認められる、との見解があります*11。
そこに信仰義認という徹底的な天からの恵みを見出したルターの中に、残念ながら少なからずの人間的な残滓を見るのです。そしてその「人間的なもの」が、実に人間に根源的に分裂をもたらすものであるということを知るときに、私たちはその「人間的なもの」からの全き脱出を信仰の志として抱かざるを得ないのです。
ここにおいて天からのもの、天来のものにのみ生き切る歩みが、信仰者の課題として問われることになるのです。
 内村は言います、「ここにおいてか、われらは第二の宗教改革を要するのである。ルーテルのおこないし以上の改革を要するのである」、「ルーテルの改革を改革する改革である。われらはルーテル以上の改革者たるべきである」*12。


 2年後(2017年)は、宗教改革500年という記念の年となります。
 私たちはそれに向けて、いかなる心づもりをなすべきでしょうか。以上のことを学ぶときに、その記念を単なるお祭りに終わらせることなく、内村先生が言われる「彼(ルター)の功績をして完全(まった)からしむる」(*5参照)ために、つまりルターに心からの敬意を抱きつつ彼の成した宗教改革を徹底する責務を負っているという自覚に立つことがだいじではないでしょうか。
 そしてその歩みは、私たち無教会人の歩みの具体性に委ねられているといえると思います。「第二の宗教改革」―この畏怖に値すべき言葉の意味するところを、正面から見据えようではありませんか。
 そしてそれは信仰義認の理解において、教会の方々と共通し得る真理性にもつながると信じます。


 人間的なものを脱して生ける主イエスの命に生き抜くこと、これが今回のだいじな学びの焦点です。最後に、「ルーテルの遺せし害毒」にある文章を掲げます。

われらはルーテルになろうては足りない。キリストになろうべきである。キリストはルーテルのごとくに、政権に由りて改革をおこないたまわなかった。キリストは政権の捨つるところとなりて、十字架につけられて、人類を救いたもうた。その点において、フスとサボナローラとはキリストに似て、ルーテル以上の改革者であった。キリストはまた聖書を重んじたまいしといえども、その文字に囚われたまわなかった。彼はよく律法と預言者との精神を解したもうて、自由に聖書を解釈したもうた。キリストは教敵に対して親切でありたもうた。反逆者ユダをさえ救わんとて、最後まで努力したもうた。彼は喜んで異教徒を迎えたもうた。かつて一回も、信仰箇条のゆえをもって人を責めたまわなかった。かくしてキリストとルーテルとの間には雲泥の差があるのである。われらはルーテルをまねて、完全(まった)きクリスチャンたることはできない。*13
 
 信仰者は、どこまでも人ではなくキリストに倣うのであります。生けるキリストのみに従いて、他の似たものに目と心を奪われないことがだいじです。「比較的真理は絶対的真理の代用をなさない」 *14のであります。

*13 同『全集』第6巻、251頁。
*14 同『全集』第6巻、247頁。