無教会全国集会2015

2015年度 無教会全国集会ブログ

自分を離れて生きる

2016-01-29 12:09:48 | 主題講演

成澤 光

<主題:生けるキリスト>
はじめに
 本日の主題を確認しておきましょう。
 ガラテヤ書2章19~20節
 「わたしはキリストと共に十字架につけられています。生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです」。
 これと関連して、ロマ書14章7,8節を読みましょう。
 「私たちの中には、だれ一人自分のために生きる人はなく、だれ一人自分のために死ぬ人はいない。私たちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです」。

 わたし自身は、これらのパウロの言葉を自分の現実とはかけ離れたこととして受け止めてきました。わたしは「キリストがわたしの内に生きておられる」などとはとうてい考えられないのです。「生きているのはもはやわたしではない」などと確信もって言うこともできません。パウロのように言い切るためには、あまりにもわたしは自分中心であって、キリスト中心ではないからです。わたしはこの主題について講演する資格はないと思って、一度はお断りしたのですが、ふと、パウロのような信仰がないわたしの惨憺たる現実を、「自分を離れて生きる」ことの難しさとしてお話ししたいと思い直し、お引き受けした次第です。

1 個人的な経験から
 わたしの母は、11年前に91歳で亡くなりましたが、80代になったころから徐々にアルツハイマー型認知症が進行しました。次第に記憶障害、見当識障害(いま何月何日か、どこにいるのか分からなくなる症状)が顕著になり、徘徊して交番のお世話になったり、徐々に足腰が弱って寡黙になり、話しかけても無反応になるなど病状が進行していきまして、最後は寝たきりになりました。家族だけの介護には限界があり、老人病院や特別養護老人施設のお世話になりました。
 当時わたしは、母の見舞いに行ってもどう接していいのか分からず、言葉をかけても何の反応も示さない人の見舞いに、どのような積極的な意味があるのか分かりませんでした。ことばを交わせない、表情も動かない人を愛し続ける方法が分からなかったのです。
 しかし、亡くなってから10年以上経ったいまは、少しばかり人生経験や介護知識も増えて、あのときこうすればよかった、ああすればよかったと自責の念にかられています。ときどき母の遺影の前に立つとき、また、母が入居していた施設の職員から「お母様はいつも息子さんが来ると言って、門のところに長い間じっと立っておられました」と言われていたのを想い出すたびに、重い悔いが胸に迫ってわたしを苦しめます。
 結局のところ、当時のわたしには、聖書が教えているような、人に対する「無償の愛」が分からなかったのです。言葉を発することができなくても、あるいは、わたしの心づくしに対して何も感謝のことばを発しなくても、あるいは微笑一つ返せなくても、母を愛し続ける。それが十分にできなかった。最も身近な存在であり、長年愛し続けていたはずの母に対してすらそうなったのですから、そのほかの他人に対して無条件で心を開くことが、本当のところわたしには出来ていなかったのでした。

2 他人を愛することの難しさ
 こうした個人的な経験から考えましたのは、「人は本当に人を愛することができるのか。イエスが教えたように無償で(何の見返りもなしに)人は人を愛することができるのか」という根本的疑問です。「キリストがわたしのうちに生きる」ことなどほとんどあり得ない人間の悲惨について悩むようになりました。
 イエスは「敵を愛し、迫害するもののために祈れ。自分を愛する者を愛したからとて、なんの報いがあろうか。兄弟だけに挨拶をしたからとて、何のすぐれたことをしているだろうか」(マタイによる福音書5章44、46、47節)と、驚くべきことを言われました。「自分を愛してくれる人を愛する」。「愛し、愛される」というのが普通の人間関係でしょう。しかし、イエスは「そうしたからといって何の報いがあるのか」と、われわれに鋭く問いかけています。イエスが教えていることは、「愛は一切の見返りを求めてはならない」と言い換えることができるでしょう。
 アメリカの精神科医、エリザベス•キューブラー•ロスもこう書いています。
「ほとんどの人は無条件の愛を望んでいる。しかし、哀しいことに、人は相手がその相手であるという理由だけで愛することに困難を感じるのだ」(『ライフレッスン』)と。
 つまり、ほとんどの人は人を愛する時、相手が何かを自分に返してくれることを期待しています。こちらの期待する通りに反応してくれない相手を、いつまでも愛し続けることはできないのです。まして自分に害を加える敵までも愛する、などということはとうていできないでしょう。イエスの教えは人間にはとうてい不可能なことなのです。
 ではなぜイエスは「敵を愛せよ」とまで教えられたのでしょうか。
 それは第一に、他人を愛せない人間の本質的な悲惨に気付かせるためではないかと思います。そしてさらに、それほど罪深いにも拘らず、イエスは人間を愛し続けて下さった、罪を赦して下さったということです。
 イエスが十字架に付けられたとき。弟子たちは一人の例外もなくイエスを見捨てました。しかし、イエスは十字架で死なれた後、復活した姿を弟子たちに見せられたとき、弟子たちに何と言われたか。自分を裏切った弟子たちを一言も責めることがなかったのです。「おまえたちはなぜわたしを見捨てたのだ」とは一言も言われませんでした。それどころかヨハネ福音書によれば、イエスはこう言われました。「聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される」(ヨハネ20章22~23節)と。イエスは弟子たちの裏切りを責めなかっただけではなく、逆に「赦す」ことを教えられたのです。
 マタイによれば、イエスは自分を官憲に引き渡そうとしたユダに対してすら「友よ」と呼びかけられています(マタイ26章50節)。イエスはその生涯を通して、「その友のために自分の命を捨てる、これより大きな愛はない」(ヨハネ15章13節)と言われ、真実の愛を教えられていたのです。それにもかかわらず、イエスの生前にだれも、「愛するとはどういうことか」理解しなかった。なぜでしょうか。

3 人間の自己中心性、自己保存性
  3.1 罪の原型 
 なぜ人間は無償で人を愛することができないのか。ささいなことで人を「赦せない」と思い込むのか。聖書は「無条件に神を畏れ、人を愛せよ」と教えているのですから、その教えに反して、神を畏れず、無償で人を愛せないということは、人間の根本的な「罪」です。しかし、そもそも「罪」とは何でしょうか。分かっているようで本当は分かりにくい言葉です。
 そこで、「罪」の一つの特徴を人間の「自己中心性と自己保存性」だととらえてみます。そうすると、ますます少し難しく聞こえるかも知れませんから、創世記から具体的に考えてみましょう。
 創世記には、最初に神が創造した人間アダムとイブが神の命令に背いて木の実を食べた話しを記しています。二人は神から「この木の実だけは食べるな」と命じられたにもかかわらず、神の言葉に従うよりも自分の五感と理性による判断を優先したのです。「その木はいかにもおいしそうで、目を引き付け、賢くなるように唆していた」と書かれています。最初にそう判断したのは女でした。女が男をそそのかしたと読むこともできますが、女は自分でよく考えて食べたのですからまだましだとも言えます。男は黙って妻に従っただけです。男には自分独自の判断がなかったとも読めるでしょう。夫は寡黙で、いつも妻の考えに従って生きる。いまでもよくあるパターンです。しかし、結果的に二人とも神の戒めを破って、神中心から離れ自己中心に行動してしまいました。
 神の命令に反して自分の判断を優先する。これが人間の「自己中心性」です。自分中心であって、神中心ではないのです。
 そしてさらに、この物語では、神に問いただされたアダムがこう言っています。「あなたがわたしとともにいるようにして下さった女がくれたので食べました」と。またイブは「蛇がだましたので」と言い訳をした。これを「自己保存性」とわたしは言いたい。悪いことをしたとは思ってもなお、自分の正当性を主張したい。自分を徹底的に否定的に見ることを避けたい、少しでも自分を弁護したいと思う。「正しい人はいない。一人もいない」と教えられているにもかかわらず、自分だけは例外だと思いたい。自分が悪いことをしたのは、他の誰かが悪かったからだ。アダムは「神様、あなたがあの女をわたしのそばにおかれたのでしょう」と、神にそもそも責任があると言わんばかりです。
 こうした「自己中心性」と「自己保存性」こそ人間の罪の特徴であり、人間の悲惨だといえるでしょう。自己中心性から脱しない限り、人は無償で人を愛することは出来ない。自分を離れて生きることができない。「キリストがわが内に生きる」などとはとうてい言えません。
 17世紀フランスの哲学者パスカルは『パンセ』(B586)の中で、こう言っています。「自分の悲惨を知らずに神を知ることは危険である」と。多くの人が自分の悲惨、自分中心で人を愛せないことに涙を流さず、惨憺たる自分の闇に苦しまずに、無意識に信仰を続けようとして、結局は神中心ではなく自己中心から抜け出せない。これは自己満足的な信仰生活であり、きわめて危険だと言えます。
 3.2 赦すこと
 自己中心のもう一つの特徴は、人を赦せないという罪です。自分や自分の家族に対して害を及ぼしたり傷つけた人を赦せないと感じ、さらに進めばその人を憎むようになる。「目には目を」という同害報復の原理は、こうした憎しみに支えられた思想でしょう。
 しかし、イエスは言われました。「敵を愛し憎むものに親切にせよ」(ルカ6章27節)。「神を愛していると言いながら兄弟を憎む者は偽り者である」(ヨハネ第一の手紙、4章20節)と。しかし、生来の人間には敵を赦す力がない。エフェソ書はこう言っています「無慈悲、憤り、怒り、わめき、そしりなどすべてを、一切の悪意と一緒に捨てなさい。互いに親切にし、憐れみの心で接し、神がキリストによってあなたがたを赦してくださったように、赦し合いなさい」(4章31節)。 たいていの人は、そうできない。自分に害を加えた人を赦さないことによって、その人を罰しようとしています。「報復は神に任せよ」と教えられながら、それが実行出来ない。
 2007年12月韓国のSBSテレビがクリスマス特集番組として放映し、その後映画化されたドキュメンタリーがあります。「赦し―—その遥かなる道」という題名をご記憶の方もおられるかと思います。無惨な犯罪者によって家族を殺された遺族の一人が、周囲の猛反発に遭いながら、加害者を赦すことによって憎しみから解放されることを求める過程を描いた傑作です。
 この映画の監督チョウ・ウクフィはこう言っています。「このドキュメンタリー映画は、愛する自分の家族を殺害した殺人者を赦そうと、悶え苦しむひとりの人間の凄絶な物語です。(中略)しかし、この映画はまた、父母とその子どもたち、兄弟、夫婦、職場の同僚など、些細な事柄にもお互いを赦すことができず、そのためにしばしば苦しいときを過ごすことになる、私たち自身に関する話でもあります。(中略)この世界は、これからますます、人が生きていくのが苦しい社会になっていくのかも知れません。しかし、その中には、自分に過ちを犯した人を赦そうとして悶え苦しむ、弱く、そして偉大なる人間も共に生きているのです。そのような人々が作り上げていく社会は、やはり生きる価値のある世界でありましょう」(日本語版DVD解説)と。
 赦すことは憎しみを手放すこと、自分自身を苦しめる憎しみから自分を解放することですが、この映画の題名のように、赦しに至るには遥かに遠い道のりがあります。「自分を離れてキリストに生きる」ようになれるためには、さらに困難な長い道程が必要でしょう。

4「同族主義」の危険
 こうした「自己中心性」は創世記のむかしから今日まで、あらゆる地域の人間に見られて、歴史上さまざまな悲惨な事件を引き起こしてきました。さらにいまでも地球上のあちこちでその傾向を強めています。ここで少し視野を変えて、現代世界において、ますますその規模を拡大している戦争や紛争について考えてみましょう。
 例えば、ISに代表されるようなイスラム過激派は、「自分たちと同じ考え方でなければ、だれでも抹殺して当然だ」と主張し残忍な殺戮を繰返しています。イスラーム本来の教えは「寛容」でした。オスマントルコの支配していたパレスチナでは、ムスリムもユダヤ人もキリスト教徒も長い間平和共存することが出来ていました。いまでも多くのイスラーム教徒は、「過激派はムハンマドの教えを無視している、クルアーンを読んだこともないのではないか」と批判しています。
 一方、イスラエルの右派政権も、「正しいのは自分達であり、パレスチナ側がすべて間違っている」との立場を譲りません。ユダヤ教の正統派は「神が自分たちにパレスチナの支配を約束されたのだ、律法にそう書いてある」と時代錯誤的な主張を続けて、一切の批判を受け付けません。イスラエルを支持するアメリカのキリスト教原理主義も、対話、共存、寛容といった考え方とは無縁です。アメリカ共和党右派、さらに日本の保守派、反動派も同じです。自分達の正しさに固執し、批判に耳を貸そうとしません。
 いずれも敵と味方をはっきりと分け、同じ考え方の人間同士がかたまっている。自分たちと同質の人々でなければ敵であって、憎しみと抹殺の対象でしかない。現代世界を特徴付けるこれらの自己中心的な考え方をわたしは「同族主義」あるいは「同類主義」と呼びたい。同じ信念に凝り固まって、外からの批判を一切受け付けない人々だからです。
 同族主義はネット社会によってますます強固になっています。と言いますのは、最近の若者は本も新聞も読まない、テレビを見ない、情報源はスマホで見るネットとSNSだけ。気の合う仲間だけで寄り集まって、「いいね、いいね」と言い合っている時間が長い。その結果恐ろしく視野が狭く、異質な人々に無関心あるいは冷淡になるか、匿名で誹謗中傷を平気で投げつけています。情報があふれている世界の中で、いわば心理的な自己防衛のために、自分に不快な情報を無意識に遮断しているかのようです。 
 情報社会化によって、自己中心、自己保存の傾向はますます強まっています。その結果、社会全体としては、小さなグループごとにばらばらになっていき、公共的な問題を議論する習慣がますます失われていっています。

4 信仰と無信仰
 こうした自己中心的傾向はキリスト教信仰の世界でも形を変えて浸透しています。原理主義的な人々だけでなく、ごく普通の信徒たちも、自己中心、自己保存に陥っていないでしょうか。特に無教会は、小さな集会ごとに信仰理解にかなり違いがあるまま、それぞれ自分自身の聖書解釈に基づく信仰を自ら無条件に肯定して、「自分には堅い信仰がある」と自信を持っている人が多いように見受けます。
 こうした傾向はプロテスタント教会内部には以前からあり、それに気付いていた先駆者たちもいました。例えば。カール・バルトは『ローマ書講解』(小川圭治ほか訳、平凡社ライブラリー)においてこう強調しています。「人間は自分自身の主人になっている」、「信仰は何らかの意味で空洞以上のものであろうとするかぎり不信仰である」、「キリストはどのような意味においても正しい者たちの間には住まない」。「人間の義は、信仰があたかも人間の業であるかのように、それを鼻にかけるが、まさにそれと共に、信仰の中に働く神の業は休止し、信仰もまた、地上のすべてのものが無価値で滅ぶべきものであるという法則に服する」と。信仰を人間の業と考える人、信仰を持っていることを誇っている人は、神の業の働きを止めてしまって、結果として信仰は滅びてしまうのだ、と批判しています。
 また、塚本虎二先生は、『キリスト教十講』において、こう書いておられます。
 「真に自分の不信仰に気付いた人だけが、心から「信じます」と言うことが出来る。ここに絶対の不信仰と絶対の信仰とが接触する」(「癲癇をなおす マルコ福音書九章14−29節」)と。
 関根正雄先生は信仰に自信のある人を「宗教的熱心」だと批判し、むしろ「自分の信仰のなさに泣いている人」、「十字架にすがりつく以外になすすべのないほど弱い人」にこそ、恵みとしての「信仰」が与えられると言われています(無信仰の信仰)。

5 自分を離れて生きる
 以上さまざまな視点から、自己中心性を脱却することがいかに難しいか見てきました。今回の全国集会が掲げた「キリストに生きる」という主題は、まさに「人が自己を離れて生きる」ことの勧めでしょう。しかし、自己を離れて「キリストに生きる」ことほど難しいことはありません。生来の人間にはとうてい不可能なことだと言ってもいいでしょう。「自分は信仰があるから、キリストに生きている」と自信を持って言う人がいるとしたら、それこそ自己中心の罪から免れていないのです。人に信仰があるかないか、決めるのは神であって、自分で決めるべきではありません。
 聖書の中心思想である「神を愛し、人を愛せよ」という教えは、人間が自己中心性を離れて、神中心に生きること、自分を離れて隣人中心に生きることの勧めです。たとえ自分を愛してくれない人であっても、その人のために自分の時間とエネルギーを惜しげもなく捧げること。「まず神が人間を愛して下さった、だから人を愛しなさい」と言えば難しく聞こえるかもしれません。本当に苦しんでいる人の見舞いに行っても、介護しようとして出かけても、自分には何も出来ないことに気付くことがよくあります。しかし、苦しんでいる人のすぐ側にいること、その方の話しを聴くことこそ愛の基本なのではないかと思うことがあります。
 きょうのお話の最初に亡き母に対するわたしの愛のなさについて、自分の恥をお話ししました。聖書との対話を繰り返しながら示されたことは、介護する者の愛は無償の愛であるべきこと。たとえ何の反応もなくても、それでもその人の傍らに居続けることが愛であるという教えです。母は自分が無力になって、自分では何もできなくなって、感謝の心すら表現できなくなって、愛の無償性について、イエスの教える本当の愛について、わたしが気付くよう導いてくれていたのでした。
 どうすれば自分を離れてキリストに生きることができるか。「悔い改めなさい、そうすれば救われる」という言葉が聞こえてきます。しかし、生来の人間には悔い改める力もない。あると思い込んでいる人は、自分の力に自信を持つ自己中心を免れていません。
 人間の力で悔い改めることはできない。悔い改めは努力ではなく、ただ恵みに気付くことです。自分の惨憺たる自己中心と思い上がりにもかかわらず、他人に対して心を開けない冷たい人間であるにもかかわらず、思いもかけないときに、神からあふれるばかりの恵みが与えられることがある。それに気付いて、心の深い所を揺り動かされ涙が止まらないことがある。イエスがすべての人間の罪を負われたことによって、神は人間の罪を無償で赦された。そのことによって人間は、過去の自分に対する悔いや自己嫌悪もなく、未来に対する不安も消えて、ただいま生きていることに限りない喜びに満たされる。その涙その喜びこそが悔い改めです。そのとき、人間は初めて「自分を離れてキリストに生きる」ことを実感あるいは体感できるのではないかと思います。






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