助言者 金成翰 司会者 関根義夫 記録 小舘知子
参加者 金成翰(助言者)、関根義夫(司会)、小舘知子(記録)、岩島義、金明子、佐藤泰吾、
島崎英一郎、関根智子、高橋照男、那須容平、平林和子、丸山耕平、宮武佳枝、吉村孝雄
話し合いの概略
無教会は形よりも意味を重視し真理を求めてきたが、次世代への宣教に失敗している。それは、知的偏重の傾向にあったり、社会運動が中心になったりして正統信仰から逸れてしまったからではないか。弱者のところへ行かれたイエスに倣い、本当の福音を中心に据えて宣教しなければならない。その上で、教会に学ぶべきこと、形の大切さなども見えてくる。
1、韓国の教会の成長は停滞
・韓国の教会は成長を続けてきたが、最近は頭打ちとなり現状維持が精いっぱいとなっている。大型教会はカリスマ先生の引退後、後継者が無く、莫大な財産だけが残って問題を抱えている。そのためキリスト教会全体の雰囲気が良くなく、大型教会への否定的意識が小さな教会にも向けられ悪影響が出ている。神学校を卒業した十人が開拓伝道を始めたとすると、そのうち一人が成功するかどうかというところで、ほとんどが一年以内に挫折してしまう。
2、韓国の無教会は教会に宣教する使命がある
・上のような現状にあって、韓国無教会の使命を思う。韓国の教会は形を重視してきたが、無教会は意味を重視している。韓国無教会は、形重視の韓国教会に対して宣教の使命があると言える。
3、日本の無教会は知的偏重傾向にある
・無教会は明らかに高齢化している。若い人がなぜ入って来ないのか。親から子への伝道に失敗しているのではないか。一つには、厳粛な集会のために子どもが同席しにくいという問題がある。中には、子ども好きの先生もいて、私たち夫婦は子どもを連れて2時間かけてそこへ通った。
・教会を止める時に長老から、無教会は知識人と学生ばかりだと言われたが、実際、職人である私は稀有な存在だった。
・無教会の聖書講話は知的レベルの高い人を対象としていることが多い。東京の全国集会でもそうだ。これでは、子どもにも障がい者にも伝わらない。イエス様はどこへ行かれたのか。知的レベルの高い人のところか、支配的階層の人のところか。イエス様は、本も読まない、何も知らない弱い人々のところへ行かれたではないか。このことを忘れてはならない。誰にでもわかるように語るべきである。
・聞こえない人のために手話通訳の配慮や、手話賛美を取り入れるなどの工夫も必要である。
4、若者への宣教にこだわらない方が良い
・集会の高齢化を憂い近隣の大学へ学生に声をかけに行こうかと考えたが、結局やめた。なぜかと言うと、目の前にいるお年寄りにこそしっかりと福音を伝えなければならないと思ったからだ。また、教会に満足できず集会に来てくれている人も少なくない。この人たちにも、責任をもって応えなければならない。
・助け合い、祈り合い、愛し合う信徒の姿から自然に若者に伝わるのではないか
・誰にでも伝わるもの、それは福音である。
・両親がクリスチャンなら子どもは必ずクリスチャンになりますよ、と言った人もいる。
5、社会運動は大切だが中心になってはいけない
・韓国の無教会では、集会の中で社会運動の話はしないことにしている。もしすれば、きっと言い争いになってしまうからだ。だから集会では、ただ聖書の真理だけを学ぼうとしている。他方、日本の無教会は社会運動が中心のようだ。社会運動もキリスト者の重要な役目である。韓国の無教会と日本の無教会は、宣教の道が違うのだと思う。
・東京の全国集会だけを見ると日本の無教会が社会運動中心に見えてしまうが、決してそうではない。そうであってはならない。中心は、十字架と復活と再臨である。
・伝道誌の発行を始めて25年間一度も政治問題を書かなかったが、今年だけは書かずにいられなかった。自分たちのやったことが悪い事だったという認識のない人たちが日本をリードしているからだ。だが、いつまでも政治問題を書こうとは思わない。中心は福音にある。
・デモへの参加もよかった。デモではカトリックもお坊さんも、無教会も皆一緒で、カトリックはだめだ、仏教はだめだとどこかで思っていたことが無教会の独善だったと思わされた。
・学生時代、安保闘争の渦中で闘った。当時は命を落とすことが嫌でもなく、苦でもなかった。お気に入りの聖句は、「己の命を捨つることより多くの愛はない」であった。
・若い頃は全共闘運動が吹き荒れた時代で、世の中を変えるのはシステムだと思っていたが、そうではないと最近思う。圧迫され、虐げられている弱い立場の人、一人一人が引き上げられ、救われなければ真の平和は築けない。
・社会運動は素晴らしい。でも、キリストの愛から出たものでなければならない。
社会運動は愛の本質に基づいてなされるべきである。キリスト者ではない人も社会運動をしているので、その中では信仰が通用しない。社会運動に熱心になるあまりキリストの本質が薄くなってしまうことには十分な注意が必要である。宣教の妨げになってはいけない。宣教の中心は福音。社会運動が中心になってしまってはいけない。
6、伝道の中心は福音
・本当の福音に触れれば人は変わる。
・真理がわからないともがいていた自分が、イエス様を知ってから刻々と変えられている。このことを実感できてうれしい。この喜びを人に伝えたい。伝道したいと願う。
・一番必要とされているのは福音である。本当の福音を語らなければ人に喜びを与えることはできない。
・宣教の中心は、神の愛を伝えること。
・内村以来、三位一体の正統信仰の権化と評された無教会も今や正統信仰から堕落してしまった。
7、教会に学ぶ、形に学ぶ
・娘が教会に通っている。娘の救われた喜びが感じられる。娘が変わったのがわかる。
・娘の教会では、礼拝後、信徒が一緒にお昼を食べて午後までいる。このような信徒の交流は、会堂があればこそだ。この会堂は、お店だったところを韓国人の牧師夫妻が買い取ったもので、祈って、祈って与えられたものだそうだ。私たちの集会は貸会場だが、もう少し若ければ空いているマンションなどを買って集会場にしたいところだ。
・娘の教会には「セル」というものがあって、小さいグループに分かれている。「セル」は家族のようになっていて、お互いに祈り合い、思い合う。セルの仲間のためにお菓子を作ってきたりして親しい関係を育んでいる。教会にはとても温かい雰囲気があり、小さな子どもも楽しく過ごすことができる。
・この教会は、祈りが多い。とてもよく祈っている。
・日曜礼拝の説教を夕方には動画でアップしている。
8、その他の課題、提案
・「無教会のために尽くしましょう」という言葉に触れ、45歳からインターネットで聖書データを発信している。世界24か国から毎日100人のアクセスがある。
・B.B.B.(Bible by Bible)提唱。矢内原で聖書を読まない。内村で聖書を読まない。聖書で聖書を読む。
・わが子は、四人中三人がクリスチャンであり、孫は七人中六人が教会へ行っているが、三人の子どもは皆それぞれ十字架を背負っている。
・なぜ、一人の人が死んで全ての人が救われるのかわからないと、独立学園在学中悩んでいた息子に学園の先生が言った。「意外なことが起こりますよ」と。息子は卒業して福島で農業をやっていたが、大震災で原発事故が起きた。その惨状の中で、「だから俺が死んだのだ」という天からの声が聞こえたと言う。
・ドイツは福音が深く、アメリカは実践的である。ドイツとアメリカはお互いに学ぶ必要があると言われる。多様性ということである。
・地方では、神道や天皇崇拝も色濃くどのように伝道すればよいのか困ってしまう。
・都心部でも、せっかく聖書集会に参加してきたのに家族の理解がなければ葬儀が仏式で行われてしまうこともよくある。
・無教会の集会は地域とのつながりが希薄だ。無教会の課題である。
・金さんが内村の不敬事件を知って無教会に関心を持ったという話を聞いて、人間的なものでは受け入れられなくても神様のものがたくさんあるとわかるのだと思った。良いものは全て神様のところにある。S学校の生徒も、問題のある子はたくさんのものが神様のところにあるので神に近い。恵まれている子は、神様から恵まれたものを持っているのだということでやはり神に近いのだと思う。
・父の家庭集会を引き継ぎ、兄弟家族と月二回の集会を守っている。講話を聴くだけでなく自分で話す恵みを戴いている。子や孫にどうやって伝えていくかが課題。
・朝、右翼のような形で騒ぐ姿があったが、私たちがキリストの愛を伝えようとしているということはこの人にもわかっていたはず。このようなことも宣教の一つの形になるのではないかと思う。