その一、その二の続き
『恐怖』にはSFのような話がある。「毒」には毒蛾の鱗粉を使い、防腐剤をつくることに成功した理科学部リーダーの女生徒が登場する。この防腐剤を人体に投与すれば、美しい肉体を永遠に保存できると考えたリーダーは、事故死した同高生の女子の遺体に薬剤を注射する。だが、その実験は恐ろしい結果を生み、リーダーも報いを受けることを暗示する終り方となっていた。
防腐剤を作るためには大量の毒蛾を必要とし、用済みのガは薬剤をかけて処分する。それを傍で見ていたエミ子は「可哀想に…」とガをいたみ、リーダーに「あなたは何かを忘れているわ。心とか…」と忠告する。忠告を受けてもリーダーは気にも留めなかったが、SFに登場するマッドサイエンティストのような描かれ方だった。
対照的に「もし、ガにも心のようなものがあったとみれば…」というエミ子の台詞から、日本人の根強いアニミズムが感じられた。欧米人化学者なら大量の昆虫又は動物を使う実験には、そのような感情は起きないのかもしれない。日本では動物実験で死んだ動物のため、製薬会社でも供養塔を建立したり、バクテリア用の供養塔を持つ寺が京都にあるというコメントを頂いたことがある。また、日本のケンタッキーフライドチキン社のみが、鶏供養をしているそうだ。
子供の頃に見た『恐怖』シリーズで、最も印象に残っているのが「こわい絵」。若くして病死した妻が死の直前、花嫁衣装をまとった健康な頃の自画像を描き上げる。死後夫は自分のことを忘れ去るのが怖く、決して夫が忘れないように絵を描いていたのだ。夫は妻の願いを聞き入れ、その絵を自宅に飾り続ける。だが、何故か妻は剣を持った姿で描かれていた。
みやこ高校の教師をしている夫はまもなく教え子の女生徒と再婚する。妻の自画像が変化したのはその直後だった。穏やかで美しい顔が日増しに般若のような恐ろしい顔になってくる。まさに「こわい絵」そのものと化す。まず目がつり上がり、何かを言いたげに口元も歪む。その「こわい絵」を楳図かずおは巧みに描いており、今見ても迫力がある。絵の中の妻は表情が激変しただけでなく、新妻にも襲い掛かる…
この物語は明らかに小泉八雲の「破られた約束」がベースとなっている。便利なことに「破約」を紹介したサイトもある。若くして病死した武士の妻が、夫には決して後妻を娶らぬよう死ぬ前に約束させた。はじめは独身を貫く気だった夫も、妻との間に子もなく周囲の勧めもあり、数年後、若い女と再婚する。そして前妻の亡霊が現れ、新妻を殺すというストーリー。しかも、首をもぎ取るという惨殺なのだ。
「破約」は小学校の頃に読んだ話だった。読んだ時、この妻には全く共感を覚えず、酷い女だと嫌悪感しか感じられなかった。今でも「破約」の前妻は最低の女だと思っている。若くして夫と別れる辛さには同情がないものでもないが、死後も夫を縛り付ける執念には、女の醜悪なエゴがむき出しになっている。
ただ、中年になった今は別な感想もある。前妻に惨殺された新妻は悲劇だが、再婚も出来なくなった夫も悲惨そのものだろう。そして亡霊と化し、成仏できない前妻も惨めである。夫への愛に囚われ過ぎ、狂ってしまったにせよ、これも当人自身が招いたことなのだ。短い間にせよ、夫と過ごした幸福な日々に感謝して成仏できなかったのか。
「こわい絵」は「破約」とは正反対に、夏彦が絵を破いたら怪異も起きず、教師夫妻はその後幸せに暮らしたという結末になっている。絵が破かれたことで、前妻の怨念も消滅、彼女の魂も解放され、成仏出来たと思う。
面白いことに中国の古典「聊斎志異」の一編「鬼妻」にも同じ話があり、前妻が鬼(亡霊)となるので、こちらがルーツだろうか。ただ、中国の鬼妻は新妻だけでなく夫の前にも姿を現わし、恨み言を言うのが日本と異なる。こちらも亡霊を封じ込めた後、夫婦は平穏に暮らす。
モノは考えようで、あの世ではもしかすると旦那よりもイイ男がいるかもしれない。「こわい絵」「破約」の前妻も夫を待つ間、若くして死んだ男と交際も出来るというもの。長くても半世紀も待てば、夫は確実にあの世に来る。だが、あの世での姿は死亡時なのだろうか?自分は若いままなのに、愛しい夫が爺さんでは戸惑うのではないか…等と不心得者の私は想像してしまう。
「懐古房」とは昔の作品を懐かんでいる者を揶揄する俗語だが、時代を経てもよい作品は読み返せるだけのものがある。『恐怖』は楳図漫画ではあまり知られない作品だが、後のヒット作『おろち』や『洗礼』に通じるものもあり、もっと注目されてもよい佳作集だと思う。
◆関連記事:「金縛り」
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さて、こののらくろが体液と言った以上、精液と愛液に言及しないわけがない(笑)が、どうも楳図漫画にはその種の描写はなかったようだ。少年漫画のエロといえば当時は当然に永井豪が巨頭で「ハレンチ学園」や「あばしり一家」ではヒロインの全裸描写はあっても、性交(レイプ含む)や前戯描写はさすがに当時少年雑誌に連載されていたこともあって一切ない。それでも、私の小学校5年時の担任が「ペケとタワケとアホウ」と言ってのけたPTAのやり玉に挙げられていたのは、1970年代という時代のなせる業か。
楳図のギャグマンガの象徴にはもうひとつ、ウ○コがあります(藁)。「まことちゃん」など、特にそれが多かったのを憶えています。楳図に限らずギャグマンガではその象徴はよく使われていました。「鼻血ブー」で一世を風靡したのは谷岡ヤスジでした(超・古っ~)。
確かに私の読んだ限り、楳図漫画には「体液」描写がありませんでした。少なくとも70年代半ば頃までは性描写は少年漫画ではご法度だったのかもしれません。永井豪の「ハレンチ学園」はPТAが撤去を命じた県もあったそうで、管理教育で有名な名古屋なら特に目の敵にされたことでしょう。今から見れば「ハレンチ学園」など、女の裸が出る程度の作品ですね。
少女漫画でも「風と木の詩」は1970年代後半から描かれた作品ですが、少年愛を扱ったもの。男同士のベットシーンが赤裸々に描かれており、当時は衝撃的でした。