オルハン・パムクの最新作『赤い髪の女』(早川書房)を先日読了した。ただ、本の薄さには驚いたし、近年邦訳されているパムク作品の中では短編と言ってよい枚数だった。それでもパムク小説らしく、舞台はいつも通りイスタンブル。表紙裏では本作をこう紹介している。
―ある晩、父が失踪した。少年ジェムは金を稼ぐために井戸掘りの親方に弟子入りする。厳しくも温かい親方に父の姿を重ねていたころ1人の女に出会う。移動劇団の赤い髪をした女優だ。
ひと目で心を奪われたジェムは親方の言いつけを破って彼女の元へ向かった。その選択が彼の人生を幾度も揺り動かすことになるとはまだ知らずに。父と子、運命の女、裏切られた男……いくつもの物語が交差するイスタンブルで新たな悲劇が生まれる。
そして本作では、ギリシアとペルシア(イラン)の古典がモチーフとして使われているのも意外だった。作者が新たな手法を試みたのかは不明だが、常に東西文明の十字路と形容されてきたトルコらしい。
件の古典こそソフォクレスのオイディプス王と王書に登場する英雄ロスタムの物語。オイディプス王は父を殺し、ロスタムは息子を殺す。双方とも相手が父や息子と知らずに手に掛けたのだが、作者がトルコ人ゆえロスタムによる息子ソフラーブ殺しの話が繰り返し描かれる。
翻訳者の宮下遼氏は、「オイディプスとロスタムの出会う街、イスタンブル」というあとがきを書いており、このタイトルだけでイスタンブルの特殊さが伺える。
オイディプス王の物語と違い、日本では東洋文庫から短い抄訳が出ている程度の王書だが、近代化以前のトルコでは知識人必見の古典かつ教養書だった。江戸時代の教養人に中国の古典が必見だったのと同じく、オスマン帝国時代のトルコ人にとってペルシアの叙事詩の教養のない者は知識人とはみなされなかった。
それが日本に先んじること30年、19世紀前半からの近代化の過程で、かつて幅広く読まれたペルシアの叙事詩は顧みられなくなり、現代のイスタンブルの書店では殆ど扱われていないという。この辺りは中国の古典が見当たらない日本と同じだ。訳者の宮下氏も本書の二つのテーマは「父と子」「古典物語の断絶」という。
古典をなぞられるかたちで、本書でも実質的な「父殺し」が描かれる。主人公ジェムが赤い髪の女と初めて関係を持った翌日、井戸掘りの現場で事故が起きる。親方は死亡したと誤解したジェムは恐怖にかられた。彼の不注意が親方の死因だと責められ逮捕されるかもしれず、裁判には何年もかかり、その間予備校も大学も人生そのものが台無しになるためだ。
そこでジェムは親方をそのまま深い穴に置き去りにしたまま、母のもとに戻る。予備校には警察もやって来ず、その後ジェムは何事もなかったように振舞い続けた。それでも父の姿を重ねていた親方を見殺しにした罪の意識に、主人公は苦しみ続けることになる。
やがてジェムは地質調査技師となり不動産開発事業を立ち上げ、ソフラーブと命名した会社はイスタンブルが拡大成長する時代を背景に大企業に発展していく。かつて親方が言ったとおり、ジェムは大物となったのだ。
しかし、かつて親方を置き去りにした場所に新しい開発案件が持ち上がる。運命に導かれるように因縁の地を訪ねるジェムは、思いもよらず息子と対面することになり、父と子の悲劇に繋がっていく。
作品の重要な役回りはタイトル通り、移動劇団の赤い髪の女である。短い最終部の第3部は女が語り部となっており、過去と現在を物語る形で作品は完結する。赤い髪の女の本名はギュルジハンで、移動劇団といえ毛沢東主義の流れをくむ左翼活動劇団員でもあった。赤い髪も本物ではなく染めた色だった。生まれつきの赤毛の女と出会った時、ギュルジハンはこう言い放つ。
「私の赤髪は私自身の決断の賜物」「私にとっては意識的に行った自らの選択」
トルコの女性誌には赤い髪の女は「秘密めいていて怒りっぽい」と書かれていたそうで、やはり扇情的なイメージがあるらしい。染めたにせよ、運命の女には相応しい髪の色だ。ギュルジハンの言うように染めた髪の色とは自ら選び取った人格そのものと言ってよく、この人格は周囲の男たちの運命を狂わせていく。
その二に続く