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ハレム―女官と宦官たちの世界 その三

2022-10-16 21:30:21 | 読書/中東史

その一その二の続き
 本書にはテーマにちなんだ11編のコラムが載っており、私的にはコラム7「キラー・カドゥンたち――ハレムに出入りしたユダヤ教徒の女性商人」が最も興味深かった。ユダヤ人はイスラム圏でも学才と商才を活かして活躍していたのだ。
 レコンキスタ完了後、迫害を逃れるため多数のユダヤ教徒がオスマン帝国に亡命する。彼らはそのネットワークを生かし、オスマン帝国において商業や医療に携わり活躍した。17世紀半ばまで、宮廷侍医の多くはユダヤ教徒が務めていたという。
 
 男ばかりではなく、ユダヤ教徒の女も宮廷で活躍する。16世紀のハレムでは、母后と親密な関係を築き、大きな影響力を振るうユダヤ教徒の女が現れる。彼女たちはキラー・カドゥンと呼ばれ、ハレムのために宝石や貴重品を仕入れたり、外部の施設との仲介を取り持ったりした。
 キラーとは、オスマン帝国のハレム女性の代理人として行動した女性(ユダヤ教徒だけでなくキリスト教徒もいた)の称号で、今風に言えばビジネスエージェント的存在。ハレムの后たちにも厳格な位階制があり、著者はカドゥンを“夫人”と訳していた。

 ムラト3世の母后ヌール・バーヌーの信任を得たエステル・ハンダリメフメト3世の母后サフィエに取り入ったエスパランツォ・マルキ(本書表記)は、その代表者だった。ハンダリは、あのヒュッレムの秘書業務を遂行したとも云われる。
 特にマルキは賄賂を取って任官に口をきき、蓄財に務めた人物として悪評が高い。さらに彼女は、貨幣に混ぜ物をして、その価値を下落させた張本人であると年代記では非難されている。

 実際、彼女にそこまでの権力があったかどうかは疑わしいが、と著者は述べつつ、この風聞が引き金になり、1600年、イェニチェリ軍団がイスタンブルで反乱を起こす。マルキは八つ裂きにされて広場で野ざらしにされた後、火で焼かれたという。彼女の後もハレムにはユダヤ教徒の女商人が出入りを続けていたが、ハンダリやマルキほどに影響力を持つ者は現れなかった。
 ユダヤ人女商人は宮廷のみならず、イスタンブル市内でも活躍していた。市井の女性相手に行商をしたり、手紙の付け届けや口利き、仲人もしていたようだ。トルコ初のノーベル文学賞受賞者のオルハン・パムクの代表作『わたしの名は紅(あか)』には、そんなユダヤ人女商人エステルが登場している。
 
 皇帝に取り入った宦官が大きな権力を振るうのは、オスマン帝国でも中華帝国でも同じだが、前者は後者ほど宦官の専横は少なかったようだ。宦官と言え漢族中心の中華帝国に対し、基本的に宦官は黒人と白人だったオスマン帝国。オスマン帝国では帝国に生まれたムスリム、非ムスリム問わず奴隷にすることは禁じられていて、トルコ人やアラブ人の宦官はいなかった。
 戦争捕虜が多かった白人宦官に対し、黒人宦官はアフリカから購入されたケースが大半だった。故郷に親族がいる中国と違い、オスマン帝国の宦官は、身を寄せられるような親類はいなかった。これでは中国ほどの専横は難しい。

 オスマン帝国を滅ぼし、トルコ共和国の建国者となったムスタファ・ケマルも、養女の世話のために、ネスィプという名の宦官を雇っていたそうだ。この時代は白人宦官はすでにいなくなっていたので、ネスィプは黒人宦官だったかも。このエピソードを紹介した後、著者はこう述べる。
「帝国の高位高官がそうであったように、自らの家庭にも宦官が必要と考えたのか、あるいは、いきばを失った宦官の救済のつもりだったのか。彼の心のうちは、定かではない。」(270頁)

 中華帝国では皇后や乳母の外戚も権力を持つのは普通だが、この辺りもオスマン帝国は違っている。ハレムで働くような高級な奴隷の購入は、公衆の奴隷市場ではなく、商人の邸宅で行われていた。ハレムのために商人から奴隷を買い付ける任務が持つのは、関税長官だったとか。
 彼女らも宦官同様に、帝国で身を寄せられるような親類もいない根無し草だったのだ。つまり、女官と宦官たちは外戚自体がいなかった。
その四に続く 

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