その①、その②、その③の続き
「人種」による本性と職務の適否を判断するという決定論は、当事者である奴隷のみならず社会全体の構成に極めて大きな意味を持った。つまり、特定の職務に無条件で特定の「人種」出身の奴隷が当てはめられる、という状況が正当化された。例えばマムルーク朝のマムルークの大多数はキプチャク系チュルク人やチェルケス人が占めていたが、これら「人種」は一般の家内奴隷や宦官としては殆ど史料に現われない。
対照的に同時代のフィレンツェには、多数のチェルケス人やテュルク人の家内奴隷がいた。「人種」と適性への固定化した「科学的」思考が、ある程度反映された結果だろう。
評価の低い「人種」の奴隷もいて、中でもザンジュ人とアルメニア人をイブン・ブラトーンはこう評していた。
「アルメニア人はビーダーン(白人)の中で最も邪(よこしま)であり、これはザンジュ人がスーダーン(黒人)の中でも最も邪なのと同様である。両者は互いに体躯の力、腐敗の多さ、肝臓の肥大さ(性根の悪さの意)という点で、何と似ていることであろうか」
彼によればザンジュ人は、「彼女たちには苦役に対する耐性がある。ザンジュ[男]は満腹になれば、懲罰を与えても苦痛を感じない」とされた。アルメニア人についても辛辣にこう述べている。
「彼女たちは奴隷(アブド)として苦役を行い、奉仕的である…(中略)…彼らは苦痛[を伴う仕事]や重労働[をする]以外に美質がない。あなたが彼らの1人が怠惰に耽っているのを見たとすれば、それは力がないのではなく遊んでいるのである。
杖を手に取りなさい。彼を殴打し従命させ、あなたが彼に望むことをなすように注意深く仕向けなさい。というのは、この人種は、怒っている時はもちろん満足している時にも信頼できないからである」(81-82頁)
以上の「科学的思考」は、ナチスの人種政策の根幹となった優生学を髣髴させられる。さすが前近代ではあらゆる面で欧州に先駆けていたイスラーム社会、この方面でも先進的だったようだ。日本のイスラムシンパが特に知りたくない史実だろう。
既にアッバース朝の頃から「黒人」「ザンジュ人」への差別的な言説が見られ、9世紀のザンジュの乱のように、苛酷な肉体労働を強いられた黒人奴隷による反乱が起きている。黒人奴隷売買にアラブ人ムスリムが大きく関わっていたことは、意外に知られていない。
16世紀頃になるとイスラーム社会の奴隷も黒人奴隷が中心となり、労働奴隷の姿も散見される。ザンジュ人は19世紀にはザンジバル島のプランテーション農業に従事していたが、出稼ぎではなく労働奴隷だったのは書くまでもない。英国の圧力にせよ、ザンジバルで奴隷制度が廃止されたのは1897年のことだった。
第二次世界大戦後のザンジバル独立で、長年のアラブ人支配に怨みを抱いていたザンジュ人はクーデターを起こす(ザンジバル革命)。11世紀の「科学的思考」によれば「満腹になれば、懲罰を与えても苦痛を感じない」はずだったザンジュ男だが、憎悪は感じていたのだろう。ザンジュ人がクーデターを起こしたのは、奴隷制復活への恐怖も背景にあったようだ。
革命後まもなくザンジバルのアラブ人は略奪と虐殺の対象となり、犠牲者は数日間で5,000~12,000と言われる。この間、ザンジバルにいたインド系住民も攻撃され、多数の犠牲者が出ている。生き残った人々も財産を没収され、出国する他なかった。逃れたインド系住民の1人にファルーク・バルサラという17歳の若者がいた。一家で英国に渡った彼は後にフレディ・マーキュリーを名乗ることになる。
イスラーム史では要職に就いた奴隷出身者は珍しくなかったが、家畜同然に酷使された名も無き奴隷もまた多かったのは事実。日本のイスラーム史研究者の間でも、この地域での奴隷制への評価は分かれているが、著者は本書をこう結んでいる。
「過去のイスラーム社会の奴隷制が穏やかなものであったかどうかは一般論にすぎない。そこには、豊かで安楽な生活をした奴隷も、肉体的性的虐待に苦しんだ奴隷も存在し、それを生み出す奴隷制という「制度」が存在した。そして、その同じ制度が、異境からの他者を長い時間をかけて社会に同化させ、社会の多様性を生み出していく、そのような役割をもはたしていたのであった」(88頁)
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「イスラム世界はなぜ没落したか?」
モンテクリスト伯レベルの刑事訴訟法は1990年代まで健在だったようです。ゴーンの日本の手続きをフランスが非難するのは自分が非難されていて改心したからでしょう。ころびバテレンはキリスト教を弾圧する先端にたつように。
佐藤賢一氏がデュマ家3代の男子を扱う3部作を書いていたのは知っていましたが、『モンテクリスト伯』ともども未読です。wikiにある大デュマの画像だけで、見るからに黒人の血を引いているのが伺えますね。小デュマとなると、殆ど白人と変わりありませんが。
モンテクリスト伯のように実際にアラブ商人から女奴隷を買った西欧人は、意外に少なくなかったかもしれません。19世紀の西欧では麻薬に寛容だったのか、シャーロック・ホームズも薬物依存症でした。
『モンテクリスト伯』は未読なのでよく知りませんが、確かずさんな捜査で冤罪となってしまうストーリーですよね?それにしてもフランスでは、19世紀レベルの刑事訴訟法が1990年代まで健在だったとは知りませんでした。司法の先進国面するフランスの正体見たり。
この女奴隷はトルコの太守、アリ・パシャの娘という設定で、父が討伐軍に破れて幼少時から奴隷の境遇となり、金持ちのアルメニア人に買われて教育されました。後宮の女奴隷として高値で販売する目的で行う教育だと思います。
もともと復讐を目的とした実際の犯罪があり、それを元にして書かれた小説とのことですが、とにかく読んで損はない波乱万丈の物語です。
モンテ・クリスト伯にはオリエンタリズムが満載だったとは知りませんでした。出版が19世紀半ば頃なので、文壇ではオリエンタリズムが主流の時代でしたね。トルコ宮廷には舌を切られた黒人の宦官がいたようです。
モンテクリスト伯の愛人の女奴隷を教育したのが、アルメニア人の金持ちというのは面白いですね。実際に後宮の女奴隷として高値で販売する人々はいました。仕入れてからいきなり売るのではなく、教育を施し、マナーを身に付けさせて転売したのです。寵姫養育施設もあったようで、奴隷制はビジネスとしても大きかった。
多いので割と奴隷に寛容というイメージが強かった
ですがまあ過酷な場合も当然ありますよね。
黒人奴隷というと3角貿易で南北アメリカ大陸
へ売られた人々を日本人は連想しがちですが
(もっとも教科書で習いますし)
アラブ人の役割も大きかったとは。
白人より先に黒人を大々的に奴隷化したのはアラブ人でした。中世には大勢の白人も奴隷として中東世界に売られています。北アフリカには「浴場」と呼ばれる奴隷収容所に拉致された白人(主に地中海沿岸の住民)がいたのです。