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トルコの女人政治 その①

2018-03-30 21:10:08 | 読書/中東史

 前回に続き、オスマン帝国ハレムの世界について書いてみたい。男子禁制のハレムでは、スルタンの寵愛を巡り熾烈な女同士の葛藤が常態化しており、殊に後継者争いとなれば権力闘争に拍車がかかった。
 この辺りは日本の大奥と同じでも、規模では極東の島国など比べものとならないハレムゆえ、権力闘争や権謀術数もまた凄まじかった。皇帝の母だけではなく妻や側室、女官たちが政治に口ばしをはさむのはごく当り前、これを以って「女人政治」「女人の天下」という者もいる。

 オスマン帝国のハレムで最も有名なのは、奴隷の身分から第10代皇帝スレイマン1世の正式な皇后となったロクセラーナことヒュッレム・スルタンだろう。ロクセラーナとは“ロシア女”の意味だが、ウクライナ又はポーランド人という説もある。尤も16世紀のトルコでは、ウクライナやポーランド出身者でも“ロシア人”と呼ばれていた。
 ハレムで権勢をふるった女はそれまでもいたにせよ、正式な皇后を置かなかったオスマン宮廷の慣例を破り、奴隷の身分ではなく正式の妻に昇り詰める。ヒュッレム以降にはスルタンと正式に結婚、皇后になった女はいなかったが、ハレムの女奴隷が帝国の政治に介入する先駆けとなったのこそ彼女だった。

 3百人は常にいたとされる帝国の選りすぐりの美女たちの中で、皇帝の寵愛を一身に集めたヒュッレム。さぞかしハレムで憎まれたと思いきや、評判は悪くはなかったという。思うままに得られる金貨で、ハレムを仕切っている黒人去勢奴隷たちを完全に味方に引き入れていたからだ。
 スルタンがヒュッレム以外に見向きもしなくなったため、“失業”してしまった女たちも、仇敵になるどころか彼女の味方をする。失業した同僚をヒュッレムがスルタンに頼み、次々と裕福なトルコ人と結婚させたからだ。たとえ贅沢な暮らしができても、立場が常に不安定な奴隷でいるよりは正式な結婚をしたがるのが女なのだ。

 イスラム聖職者たちもヒュッレムの敵ではなかった。彼女が予め多額の寄付を主要なモスクに贈っていたことがある。こうしてヒュッレムはハレムでの地位を確かなものにしていった。彼女の権力行使は後宮内に止まらず、内政や外交政策でもスレイマンに助言をしていた。
 この時点では夫への相談役に過ぎず、皇帝や大宰相が帝国を支配していたため「女人政治」には当たらない。野心に燃えるヒュッレムは皇后になっただけでは満足せず、スレイマンとの間に儲けた息子をスルタンにするため様々な策謀を巡らす。後継者になりそうな他の皇子や政敵は全て謀略で退けられ、暗殺された。

 たとえ身分上は奴隷でも、己の生んだ息子が皇帝に即位すればヴァリデ・スルタン(母后)の称号で呼ばれ、ハレム内で最高の地位になれるのだ。皇帝の母后となれば帝国で最も尊敬を受け、権勢をほしいままに出来る。ただ、スレイマンの母后のように、それまでは権力の乱用をしないのが伝統だったが、これもヒュッレム以降は慣例が破られ、「女人政治」への道が開かれる。
 ヒュッレムの策動の甲斐もありセリムが皇帝に就くが、彼女はそれを見届けることなく1558年4月15日に死去した。没年は54~56歳とされる。スレイマンの死はその8年後だった。

 初めてヴァリデ・スルタンの称号を得たのがセリムのハセキ(寵姫)となったヌール・バーヌー。第12代皇帝ムラト3世の母后となり、実権を握った後宮から政治を動かす。ヴェネツィア共和国の貴族の娘だったヌール・バーヌーだが、少女時代にイスラム海賊に捕われ、後宮に献上された過去を持つ。
 ヒュッレムの出現で、第一夫人の地位を追われることになったマヒデヴランはモンテネグロ生まれと言われ、オスマン帝国のハレムの女奴隷たちがいかに欧州各地から集められていたのかが改めて分る。
その②に続く

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