トーキング・マイノリティ

読書、歴史、映画の話を主に書き綴る電子随想

僕の違和感 その③

2016-09-10 21:40:05 | 読書/小説

その①その②の続き
 日本とは国情がまるで違うトルコ。イスタンブルのような大都市でも、小説にみる風習に違和感を覚えた日本人読者も少なくなかっただろう。私が最も驚いたのが、イスタンブルにおける“盗電”。文字通り、電力会社に電気代を支払わずに勝手に電力を盗んで使用する行為を指し、イスタンブルのゲジェコンドゥ(一夜建て)では盗電が広く行われているそうだ。
 公有地や私有地に不法に建てられたゲジェコンドゥが広がるスラムでは、元からインフラ整備などされておらず、ライフラインも問題を抱えている。クルド人アレヴィー教徒でもあるメヴルトの親友フェルハトは、こんなセリフを吐いている。

政府は何年もかけて、イスタンブルの隅々まで電気を引いた。それこそ、とんでもない貧乏人が暮らす辺鄙な一夜建ての地区から、最低のごろつきどもが支配するスラムに至るまでのあらゆる場所にだ。だが、国民の方は料金を支払わずに電気を使うためのあらゆる抜け道を何年も駆使してきた。
 一向に盗電を止められず、料金を徴収出来ない政府は、ついに電力販売事業を自由化して、電力料金の回収を私企業に委託することにした。それが俺が管理職をやっている会社だ。さらには電気料金の不払いには高額な追加料金を科す法律まで出してくれた。俺たちみたいな電力会社を屁とも思わないような連中や、酷い時には虚仮にする恥知らずどもも、今では有無を言わさず払わされているってわけさ…

 電力料金回収を私企業に委託した後でも、盗電は相も変わらず続いていたようだ。盗電するのは一夜建ての貧しい住民ばかりか、金持ちも少なくなかったという。広々とした屋敷に住み、使用人にかしずかれて暮らしながら、平然と盗電をする羽振りの良い建設業者や輸出品製造業者がいたことを、フェルハトは独白している。
 そのような金持ちには、警告なしに電力を止めてしまうのが一番の近道というフェルハト。彼や会社の同僚は金持ちからは料金は徴収しても、貧乏人の盗電には見て見ぬフリをしていた。

 電力料金の徴収をまだ国がやっていた頃、電気が止められると警告されても、「忘れていた」等とその場を誤魔化すばかり、まともに取り合わない偉いさんや金持ちもいた。ごく稀に真面目な徴収人が家を訪問し、ようやく電気を止めたこともあった。
 しかし、彼等はタクスィム広場の電話局に行っても料金を払い込みはしない。代わりに知り合いの政治家に電話し、その真面目な徴収人を首にしてしまったそうだ。フェルハトが言うには、電気料金を払っていない連中を教育するのに一番いいのは、金曜日の夕方とか、休暇の前に電気を止めるやり方。週明けに電気局が開くまでの2日間、電気なしで過ごすのは応えるからだ。

 戦後間もなくなら別だが、東京で上記のような盗電はまず考えられない。試に盗電を検索したら「電気窃盗」という用語がヒットした。これに目を通したら、何と日本でも戦前には盗電はあったのだ。それにしても、焼け野原になった訳でもないイスタンブルで行われていた盗電は桁外れというか……電気料金を真面目に払う方がバカということか。

 他に驚いたのが、「駐車場ギャング」。この集団は警察ともコネのある同じ村出身の5~6人のヤクザから成っており、腕っぷしや拳銃、ナイフなどにものを言わせ、イスタンブル中心街の駐車場を席巻するようになったという。駐車が許可された裏通りや街の片隅のスペース、空き地とか駐車が禁止されている場所に、この土地の所有者は自分たちだと云わんばかりの我が物顔でのさばり、駐車した車の持ち主から駐車料金をせびる。
 支払いを拒否すると、車の三角窓を割られたり、タイヤをパンクさせられたり、欧州からの輸入高級車に落書きされてしまう。支払いを拒絶した車の持ち主の目の前で、破壊行為に及ぶ駐車場ギャングさえいる。また直接的な破壊はせずとも、ものの3時間で新車の欧州車のバッテリーからギアボックス、エアコンに至るまでお古のそれらとすり替えることもあるというのだ。

 一方でイスタンブルに巣食う駐車場ギャングは、都会のルールを知らない金持ちの手助けをする存在でもあった。何時も渋滞で車が一向に動かない通り、駐車する場所が見つからない場所などでは、“執事”と呼ばれるギャングの構成員が歩道であれ、道の真ん中であれ好きに駐車させてくれる上、車も守ってくれるのだ。さらに幾らか余計に渡せば窓を拭き、車を洗ってピカピカにしてくれる。
 こう描けば警察は何をしている?と思う方もいるだろうが、ギャングとつるんでおり、連中が徴収した“駐車料”の半分は警察官の懐に入っているそうだ。おそらく駐車場ギャングは、トルコ以外の第三世界に少なくないのではないか。街角に「百円駐車場」が乱立する日本の方が、世界的には特殊な国かもしれない。
その④に続く

◆関連記事:「トルコのクーデター未遂事件に思うこと

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4 コメント

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Re:ディアスポラ (mugi)
2016-09-15 21:18:06
>こんばんは、室長さん。

 テッサロニキ(サロニカ)はムスタファ・ケマルの生まれ故郷で、ユダヤ系の多い町でした。そのためか実はケマルは隠れユダヤ人で、トルコ革命はトルコの伝統を破壊するためだった……というユダヤ陰謀論がネットでも見られます。但しケマルは、ユダヤ系政商の大物を西欧列強の嘆願を退け、国家反逆罪で処刑しているので、隠れユダヤ人とはとても思えません。このことは以前記事にしました。
http://blog.goo.ne.jp/mugi411/e/286d45d8ea44dec65bad71def3552cc9

 白系ロシア人は欧米諸国だけでなく、イスタンブルにも亡命していたのですね。現代では信じられませんが、19世紀までは中東から欧州に移住する人よりも、欧州からトルコに向う人の方が遥かに多かったそうです。それだけ中東の方が才能を活かせたということになります。

 冷戦中、中東の産油国のハーレムにいた白人女性は、西欧在住の中東出身者による人身売買によって…という話もありました。誇張もあるのでしょうが、スウェーデンの警察小説にもアラブの人買いが西欧の少女を中東に売りとばしている話が出ています。名は忘れましたが、米国のТVドラマにもそんな話があったのを憶えています。

 それにしても、冷戦後にロシアやベラルーシの女たちが、三沢基地や関東近辺の田舎町のバーなどでも、ホステスとして働いていたとは知りませんでした。彼女らは韓国にまで出稼ぎに行っていたほどなので、日本に来るのは当然でしょうね。
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ディアスポラ (室長)
2016-09-15 11:43:13
こんにちは、
  ブルの偉人伝を小生のブログに連載していた頃、気づいたのは、オスマン帝国時代の末期、逆にブル経済は勃興し、多くのブル人達がイスタンブールに出かけ、文明・文化を享受していました。

  イスタンブール在住者たちの目的は多様でしたが、商人として金儲けを目論んだ人々、留学生として、オーソドックスの僧侶としての勉学の道を進んだ人々、僧職以外の勉学のために留学した人々、普通の労働者として、ブル人経営の手工業工場に雇用された人々、商店の徒弟として労働した人々・・・など、多様なブル人が居住していました。ブル語新聞も、本土ではなく、イスタンブールで初めて発行された。
  中には、詐欺師、詐欺的商人として、イスタンブール以外に出かけ、アナトリア半島で活躍した人もいました。

  そういう意味で、交通事情がかなり良くなった18世紀末から19世紀前半にかけては、イスタンブールのブル人コミュニティーも繁栄し、ブル文化の復興運動(ブル・ルネッサンス)に伴う、ナショナリズムへの動きも、結構イスタンブールで盛んでした。
  イスタンブール以外では、現在ギリシャ北部のテッサロニキ(サロニカ)の高校、大学なども、ブル人留学生が多かった。

  もちろん、19世紀になると、オデッサという、ロシア(今はウクライナ)南部の都市とか、オデッサに近いルーマニア領ドナウ近辺の諸都市なども、ブル人移民の巨大コミュニティーが所在していました。
  ちなみに、テッサロニキはオスマン帝国が、オデッサはロシア帝国が、夫々ユダヤ人に自由な活動を認めて、都市としての振興策としていたので、ブル人などの移民とか、留学も、自由度が高かったという事情があったらしい。ブル人達も、この両市に、ブル人コミュニティーを確立していて(豪商などが中心となって、ブル人商工協会的な組織を保有し、留学生への奨学金制度もあった)、移民しやすかった。大体は、自分たちの親戚、或は故郷の村の知人たちを頼って留学、或いは移民した。この行動パターンは、華僑に似ています。

  ロシア、バルカンで何かあると、亡命者、移民たちが、イスタンブールなどに出てくるという現象は後にも見られます。ロシア革命後に白系ロシア人とか、コサックたちがイスタンブール逃げて、1920年頃大勢これらロシア人ディアスポラがいたことを、ロシア映画(ソ連映画、確か「帰郷」と言う題名だった。外国に亡命しても、幸せにはなれない・・・と言う教訓としての映画。社会主義の1971年製作)で知りました。
  映画では、デニキン(Anton Ivanovich Denikin)という白系ロシア軍(白軍、南ロシア軍)の将軍が、イスタンブールに亡命し、一種のサーカス劇場で馬を使った曲芸で稼いでいた元部下のコサック兵たちに、思わず昔のように「命令」の言葉をかけ、元兵士たちが驚いて起立して、芸を妨げ、結果として元兵士たちに嫌がられていました。
  白系ロシア人女性が、売春婦となったのは、満洲のハルビン同様、イスタンブールでもあったことらしい。

  冷戦崩壊後は、中東の産油国のハーレムに、美人ロシア人女性が出稼ぎしている、との報道もあったように思う。一定期間ハーレムで勤務してお金を稼ぎ、自国に残した家族に送金するわけです。

  とはいえ、1980年代、まだベルリンの壁が崩壊していないころに、共産圏から逃げて、イスタンブールでベリー・ダンスするというのは、あまりそういう事例が多いとは思えない。冷戦後、外国渡航が自由化されて、その後東欧から西欧に増えたのは、いわゆる人身売買・・・・ドイツ、オランダなどで、売春婦となるケースです。
  ロシア娘、ベラルーシ娘たちは、三沢基地とか、関東近辺の田舎町のバーなどでも、ホステスとして働いていました。今は、数は減っていると思うけど。

  まあ、マフィアのカネもうけでは、麻薬密売と売春が最大の裏稼業で、駐車場、清掃業、警備会社、保険業、などは「表の顔」と言える。とはいえ、金融業、銀行経営、製糖工場など、マフィア系資本家は、混乱期を過ぎるとどんどん合法系の企業経営者に転身します。

 
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Re:盗電、駐車場マフィア (mugi)
2016-09-11 22:43:15
>こんばんは、室長さん。

 社会主義圏だった東欧諸国や旧ソ連邦でも、トルコと同じく盗電や駐車場マフィアが蔓延っていたのですか。これらの地域では冷戦終結後、社会秩序の混乱や人々の急速な貧困化が背景にあるにせよ、トルコは一応は自由主義圏で、イスラム社会です。まして、直接的な敗戦はしていない。にも拘らず、盗電といい、駐車場マフィアといい、社会で起きていた現象は殆ど同じなのは興味深いですね。

 パムクやテキンの小説には、主に東欧圏からの出稼ぎ女性について触れていたことがありました。既に80年代から彼女らはイスタンブルに来ており、風俗嬢として働いていたそうです。トルコの風俗店といえば、ベリーダンスが知られていますが、トルコ女性は殆ど就いておらず、せいぜいジプシーの踊り子か、出稼ぎ外国人女性だったとか。それだけイスタンブルは共産圏のどの都市よりも繁栄していたといえます。

 もとから国際都市だったイスタンブル。出稼ぎ外国人は珍しくないし、余所者が常に移住してくるのは当り前でした。案外東京のように、三代前からイスタンブル人という方が少数派かも。パムクはオスマン朝時代からイスタンブルに住んでいる名家の出のようですが、生粋のイスタンブル人の方が小さくなっているような…小説でもイスタンブルの汚職や腐敗は、全て地方の余所者のせいだ、という地元っこの声がありました。
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盗電、駐車場マフィア (室長)
2016-09-11 11:57:05
こんにちは、
 社会秩序が混乱する時期、そして人々が急速に貧困化する時、などには、バルカン半島、旧ソ連でも同じような現象は起きていました。社会の在り方が、トルコと似ているから同じような現象が生まれるのでしょう。そう言えば、ベラルーシでも「トルコ式コーヒー」が飲まれているし、市場でHalvaという中東式のお菓子が売られていて、トルコの影響はここまで来ているのか、と驚きました。

 ベラルーシでの事例では、金儲けのために、田舎の送電線が数kmにわたり切断されて、銅線が盗まれ、金属商(鉄くず、その他を扱う業者)に売り飛ばされたりしました。電線の切断、盗難は、鉄道のレールの窃盗とともに、ベラルーシでも、ブルガリアでも一時期頻発した事件です。自由化後の電力企業の民営化で、盗電はやはり減っていますが、ブルのジプシー地区では、なかなか盗電は絶滅できません。

 駐車場マフィアは、ブルでは、市の幹部と癒着して、市の公用地、特に需要の多い市の中心部の土地を、マフィアが買収、または、安価に賃貸して、大規模駐車場を建設し、表向きマフィア企業の「合法的事業」と化しました。

 混乱期とは言え、西側からの中古車の輸入ができるようになった自由化も並行していたので、中心地区での駐車場需要は高かったわけです。

 更には、混乱期のマフィアにとっては、市中心部での高級乗用車窃盗も大事業で、もちろん西欧で盗んできた高級車も販売したほかに、ソフィア市内でも、高級車を盗んでは、他の地域に転売する事業をしていました。

 一方では、高級乗用車+普通の自動車に至るまで、マフィア系列の「保険屋」との契約を売り込みました。年額6万円ほどと言う、「高額の保険料」を支払えば、例え盗難に遭っても、元の車と同金額程度の車がすぐに代車として提供されるし、そもそも、車の窃盗グループも保険屋と同じマフィアの系列下ですから、自社の保険シールが貼られている車は盗難のリスクが激減するのです。

  要するに、1990年~2006年頃までは、上記のように、盗電、金属窃盗、車の窃盗、そしてそれらを防止するためのマフィア企業系の保険屋と、「分り易い、しかし情けない状況」が続きました。駐車場もマフィア系列企業の経営なら、市の委託する清掃業者もマフィア系と、儲かる事業はほぼマフィア企業が独占していました。

  そもそも、マフィア企業そのものも、元の警察、或いは秘密警察の若手幹部らが創設したものが多く、新しく「政治家」になった人々とも顔なじみであったり、ツーカーの関係と言う事例もあり、政治家とマフィアも癒着していたのです。

  旧体制(社会主義時代)の偉いさんたちの下で、老人の偉いさんたちの我儘を満たすために、権力、暴力の行使するせざるを得なかった、旧治安機関系の若手官僚たちが、一方はマフィア企業を経営し、一方は政治家として、新しい世の中を牛耳るという現象がブルガリアを含め、旧東欧では目立ちました。

  旧体制下で、どの程度の非合法活動が「可能か」を実際に知っていたし、自由化後の社会で、どの程度は暴力に依存しつつ、企業経営をできるか、また、金をつかむために、元の国営企業などから、どうやって資産を盗むかとか、そういうことを工夫して自由化後にのし上がったのが彼らでした。
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