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トルコの女人政治 その②

2018-03-31 22:10:25 | 読書/中東史

その①の続き
 自分の息子や孫がスルタンとなり、ヴァリデ・スルタン(母后)としてハレムの女主人となっても、それで生涯安泰とは限らない。30年ちかくに亘り宮廷支配を行ったキョセム・スルタン(1589?-1651.9.2)は、息子ムラト4世イブラヒム1世を皇帝に就け、孫のメフメト4世(イブラヒム1世の子)も皇帝にすることに成功している。にも拘らず、ハレム内での権力闘争に敗れ、暗殺された。
 キョセムの幼名はアナスタシア、元はギリシア生まれの女奴隷だった。彼女と争ったのはメフメト4世のウクライナ人の母トゥルハン。つまり、嫁と姑が激しく権力闘争を繰り広げ、勝利したのは嫁の方である。

 嫁と姑が不仲なのは別に珍しくもないが、オスマン帝国におけるお家騒動となれば暗殺は付きもの。メフメト4世からすれば、実の母が実の祖母を殺したのだから、心中はいかばかりだったろう。或いはこの暗殺を死ぬまで知らされなかったか?
 キョセムは絹のリボンで絞殺されたが(※カーテンで押さえつけられての窒息死説もある)、このやり方は高貴な罪人への特別な処刑方である。暗殺を実行したのは黒人奴隷で、彼らは高貴な人々の暗殺用として予め人為的にろうあ者とされていた。絞殺は女人だけでなく皇子に対しても行われた。

 トルコの作家オルハン・パムクの作品『白い城』には、この暗殺を描いた個所がある。キョセムはイェニチェリの将校たちと通じ、現皇帝と現母后を弑し、スレイマン皇子を玉座に据えようと謀るも失敗に終わり、「口や鼻から血を垂れ流すまで首を締められ、こと切れた」(72頁)とか。荒縄で絞首刑となる庶民と違い、高価な絹が使われたにせよ、首を締められて苦しむのは同じだ。

 16世紀末までのオスマン帝国は、即位した皇帝の兄弟達は全て抹殺するという非情な掟があったが、メフメト3世の時代からはこの掟は廃止される。以降スルタンの兄弟達は、トプカプ宮殿の最も奥の北の角にある「黄金の鳥籠」と呼ばれる一室に幽閉されることになった。監視に当たったのは、秘密を守るため鼓膜に穴を開けられ、舌を切られた宦官たちである。
 歴代皇帝の中には「黄金の鳥籠」での長い幽閉生活のため、精神を病んだ者も少なくなく、キョセムの息子イブラヒム1世は“狂人”と云われた。1648年、突如己のハレムにいた側妾や女官、宦官ら280人全て袋詰めにしてボスポラス海峡に投げ込んだ暴挙は、それに相応しい。

「黄金の鳥籠」制度は、精神状態や統治能力に欠陥のある皇子を生み出す結果となり、幼弱な皇帝も相次いだ。側にいるのが女官やろうあ者の宦官では、健全な環境には程遠い。これでは皇太后が政治関与を大いに強めるのは当然の結果だし、これが「女人政治」「女人の天下」の実態だった。
 ハレムのような異常な処で暮らしている母后も、国際情勢や自国の社会問題に全く疎い点では変わらず、彼女らの関心事は専ら後宮内での権力闘争に向けられた。領土的野心を露わにして来る周辺敵国よりも、後宮のライバルの方が遥かに危険だったから。躍進する西欧やロシアと対照的に、オスマン帝国は衰退していく。

「女人政治」「女人の天下」と言ったのはほぼ男だろうが、この表現には女が政治に介入したことへの強い嫌悪感と侮蔑が感じられる。母后や側室の専横で帝国が混乱したのだから、尚更のこと。国が発展・繁栄したのであれば、評価はやや違っていたかもしれない。
 だが、皇帝を支配したのは後宮の女だけではなく、彼女らに加担した佞臣も多数いたはず。それに加え、宦官の存在も無視できない。権勢を欲しいままにした中国の宦官については割と知られているが、中東史の宦官に関しては日本では殆ど知られていない。中国に劣らず中東の宦官の悪事もまた激しかったことだろう。

「女人政治」が興ったのは、ハレムがあったからに他ならない。3百人もの美女たちがいるのだから、トラブルが起きないはずがなく、宦官も後宮管理の必要性から生まれている。男性至上主義の象徴たるハレムで、スルタンは所有物である女奴隷から手酷いしっぺ返しを受けたのだ。

◆関連記事:「宦官
 「オスマン・トルコの後宮事情

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